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2019.04.16 Tuesday

ビンの中の船

 



『ビンの中の船は沈まない

帆が風にゆらぐこともない』





何の台詞だったか。


2019.03.12 Tuesday

こころにうかぶままに

 




「櫻の園」テーマに添って 心に寄せる波 イメージスケッチより。

コノハナサクヤヒメ

コノハナサクヤヒメ

セオリツヒメ・・・



◆点滴堂企画展「櫻の園・第二幕」
 3月20日(水)-31日(日) 月曜・火曜定休
 12:30-21:00
 会場 点滴堂 ギャラリースペース
     東京都武蔵野市 中町 1−10−3 2階
     電話  090-6796-5281
 アクセス 三鷹駅北口徒歩5分 


2019.01.10 Thursday

誰かな

 




アナスタシア?


2019.01.08 Tuesday

初夢

 
初夢は多本立てですでにもうみていたのですが、
今朝の夢はなんとも印象的すぎました。
やはり多本立てで、過去から未来へ一気に駆け抜けた感じでした。

その中でも非常に徳の高い方と再会し
示唆に富んだお言葉を頂く夢の1本が非常に印象的で、
今の自分の根源に繋がる力が
そのまま今にも力と成って顕れ、
そして未来につながってゆくことになる、という確信を得ました。

目が覚めても今日はなんだか一日中ふわりふわりと
あちらの世界に行って居るような感覚があって、
今朝の夢で相当心身のエネルギーを消耗したみたいです。

夢と現実の区別なんてない、と断言した友人がいましたが
本当にそうだと思います。

年明けから心に浮かんでいたイメージと
今朝見たイメージがシンクロしています。

この夢を記憶に刻まねばという心持になり、
珍しくスケッチをとりました。(写真はその一部より)





2018.12.29 Saturday

時と界の話

 
時間という概念は人が作り出したもので、
本来時間による区切りと言うものはこの世に存在しないのではないか、
と気づいたのは今からもう何十年も前のこと。



小学5年生のとき、初めて歴史の授業が始まった。
当時、大河ドラマなど見ている同級生たちは歴史上の人物が授業に出てくることに
すくなからず興奮していたように思う。

一方、私は、大河ドラマなどうちは見ない家庭だったし、
もっと根本的な問題として歴史という概念が全く理解できなかった。

つまり、今自分が生きている時以外に時がある、という概念について
何の説明もなく、いきなり「歴史」という授業が始まっても、
何の事やら全く理解ができなかったのです。



人はいつからどうやって、
今の自分からさかのぼって人の脈々とした歴史がある、
ということを理解するのだろう?

せいぜい自分が生きてきた今に会うことができる曾御祖母さんくらいまでしか
小学生の私は理解ができなかった。



歴史という時の概念が根本的に抜け落ちていた私は、
当然歴史の授業の意味がまったく解らず、
また、
それまでの国語や算数のように思考して頭を使うのではなく、
ただ書かれた数字(年号)を何も思考せずにそのまま記入するだけで
テストの点数が採れる、ということも衝撃でした。

『そんなテストに何の意味があるの?
本のとおりにただ機械的に覚えたことをそのまま書いても何の意味もないのに』という
思いがどうしてもぬぐえず、納得できませんでした。
そこには何の思考も創造もなかったから。



いまでもどこかしら私の中では「今」しか存在しないように感じられて仕方がない。

さらに現代になって、
この世のすでに在る真理に比べたら遥かにその解明が遅れている物理の世界でも、
時空の概念が徐々に明らかになり、
「今」以外にも複数の「今」の時空が存在することもわかり始めてきた。
既存の「今」という概念が、最先端の研究では揺らぎ始めているかのようだ。

「今」も、
自分よりさかのぼっていく「過去」というものも、
パラレルに複数存在するかもしれない、と。



複数の階層となっている「界」。
「界」の概念ではもはやこれといった過去は存在せず、
「今」しかないのではないか。

そういった概念がじっさい加わり始めると、
「時」という概念も当然いままでどうりでは無理が出てくる。

ある意味、感性の鋭い子供時代に既存の歴史と言う概念を不自然に感じていたことは
ここにきて正解だったのだとも思える。



とくにここ最近では界の層を日常世界にも感じる。

界が異なれば、真の言葉は通じない。
ただ音声として伝わるだけで、その真意は通じない。

界が異なるから通じないのであって、
界の異なる相手を変えようとしても自然の摂理としてそれは無理なこと。
相手を変えるのではなく、自分がその界から視線をはずし、
自分が生きやすい界へ移行すればよいこと。
気づけば界を移行することはできるのだから。

複数の「今」。

逆に同じ界に居るものどうしなら、
時間をかけるまでもなく瞬時に互いの的確な役割が満たされ
言葉などなくても真意が滞りなく通じるだろう。


2018.12.18 Tuesday

層になっている界と各層をつなぐ舟のこと

 



あるひとつの視点として。

住む「界」が異なる人にまことの言葉を伝えようとしても他の界には通じない。

逆に同じ界にいる者どうしであれば言葉などなくとも瞬時にして通じあう。

もし自分が居る界が自分にとってまことに善きものであるのなら、
他の界にこちらから近付く必要もない。

界と界をつなぐ舟が来る時期がある。
ひと月に一度か、一年に一度か、十年に一度かはわからないけれども。
その舟で自由に界を移ることはできる。
自分の好きな界へ
自分の意思で。
自分が好きな場所へ視点を移せばいいだけだ。

いずれにしても界の異なる者の言葉は魂に届かない。
ただ色あせてみえるだけ。




ぺいすさんの舟にゆられてゆらゆら・・




ダライラマの言葉より。

『古くからの友人は去ってしまいましたが、
新しい友人がやって来ます。
毎日の生活と同じことです。古い一日が過ぎていき、新しい一日がやって来る。
重要なのは、それを意味のあるものにするということです。
つまり大切な友人、あるいは有意義な一日にするということなのです。』





『本当の幸福は、
自分自身や親しい人々という
限られた対象の幸せを気遣うことからもたらされるのではなく、
全ての生きとし生けるものに対する、
愛と慈悲の心を育むことから生まれてくるのです。』






2018.12.18 Tuesday


頻繁に頭に浮かんでくる言葉があります。

2018年を一文字で表わすなら「活」。

うつくしい自然の脈動は 祓い清め。

次の年に開かれる扉に向けての「活」。

玄気陽々に満ち満ちて。


*


『きちんと扉が閉じられることで初めて次に最高の扉の前に立つことができる』とは

私の人生で出会った中、もっとも徳があると感じた方からの言葉。


2018.12.13 Thursday

「忌みごと」より思うこと

「忌みごと」とは絶対に避けては通れない重大かつ大切なことが含まれている
・・・と感じられて仕方がない。

古神道においても忌みことというものがある。
生死や血に関わることがそれとされていて、
肉体を持ったものが絶対に避けては通れないことでもある。

ただし「忌みごと」とされている中には
「穢れ」というまた別の質のものも混在しており、
その違いを見極める力と学びが必要だとも思う。



古神道の勉強を進めていくと、
忌みごとというのは単に「穢らわしい故に避けるべきもの」というのではなく、
あまりにも大切なものであるが故に
むやみに触れてはならないこと、とされたのではないかと思うようになった。



古神道のタブーのひとつに宇宙に関することがある。
宇宙と言ってもせいぜい太陽系の中だけに関心はとどめておくように、と。

宇宙というものが忌みごとのようになっている。
これはなぜか。

第一に、足元の大地のこともわからない(丹田もできていない)者が
宇宙のことに関心をもちすぎて魂の抜け殻と成ることを危険視しての事ではないか。
やみくもに宇宙がだめだと言っているのではなく、
ものごとの分からない者が、身の丈に合わない世界に関心を向けることで
勝手な理論や利益展開することを禁じているようにも感じる。

また、人は怖い目にあったり、常軌を逸する出来事があると
心の岩戸を閉じてしまい、再び開かせるのが難しくなってしまう。

ものごとにはやはりその人の器なりの順序というものがあり、
自然の循環をまことに活きるのなら、一足飛びは避けるべきなのかもしれない。

そういう視点で日本神話で忌み事とされているものや、
キリスト教文化圏でタブー視とされているものごとを改めてみてみると、
また異なるものが見えてくるように思う。



最近、身の回りのニュースや出来事のなかで、
自分から離れていく界として感じることと
自分が居たいと思うとても近く感じる界とが、
極端に分かれて行っているように感じられる。
親しみのある界はより近くに、
離れていく界とその住人は、私にはとても遠く感じ実在感が薄い。

目に見えるこの世界の中でも、幾つかの層になっている界に分かれていて、
今まで重なり合っていたものが、今はすこしずつ離れている・・という感覚。

次元の交差では、
どの界を行く船に乗るのか選ぶことができる。
居たくない界に居る必要はない。
目に見える世界で起きている故に、今は非常にわかりやすくなっている。
そして乗る船を選ぶのは、他ならない自分自身である。
(チャンスの女神の前髪は短いとはうまく言ったものだと思う)

だからなのかここ最近、
人生を大きく変える決断をする友人知人が周りに何人も表れる。
知らずともみんな気づいている。
そしてそういう時に大きな助けとなるのは人と人との繋がりだと思わされる。
それぞれこの世に生まれた役割を果たして活きている人(=界を見極める直観力のある人)
どうしのつながりの大きさ。



たまてばこがひらき
ノアの箱舟がいよいよ波に乗る。

その良し悪しは
ひとそれぞれ居る界に寄ってことなるのでしょう。


2018.12.07 Friday

癒しと感謝

世の中に美味しいパン屋さんはいろいろあれど、
「美味しい」と言うのとはまたべつに、
自分でつくるパンが食べた時に自分の体に一番しっくりくるのに気づいた。

丁寧に育てられた大好きな果物たちで酵母をおこし、
生地を本当にかわいいと感じながら自分で作ったパンを食せば
体が必要としているところにちゃんと行き渡るような感じで。
手でむすんだおむすびのような、
作った人それぞれの手が持っている味わいと深いちから。

そんなパンを毎日食べていたら、
ウラジーミル・メグレ著のノンフィクション小説
「響きわたるシベリア杉」のシリーズでのアナスタシアの種まきを思い出す。

植えた人自らの体を癒す植物が育つ種植えの仕方、水やりの仕方。
ある意味儀式めいた
大地と語らうこと
天と語らうこと。
本人が自らが行わなければ本人を癒す植物は育たない。
野菜なら何でもいい、口に入れば何でもいい、という訳ではないのだ、という事。

日本では新嘗祭という儀式がある。
世界でも収穫祭、豊穣祭があらゆる国で行われる。
儀式めいた感謝の祭りが。
襟を正し姿勢を調えて
儀式とは
大地と語らうこと
天と語らうこと。
こういう形で
脈々とこの現代にまで繋いでいる。
そうやって感謝を受けて育ったものを食す。いただく。
そしてまた感謝の渦。

今の人の世は、
かつて備えていた優れた能力の
退化もしくは、人によっての2極化がいちじるしい
と感じる。

*

今年の夏がひどく暑かったおかげで
この秋に収穫された果物たちがとても美味しいと農家さんが言っていました。
自然の循環は本当にうまくできている。
宝物のように豊かな味わい。
本当だ、本当においしい、と果物たちに心身が癒されています。
あの暑かった夏に感謝です。
この秋に美味しい果物や野菜をとどけて下さった方々にも感謝です。
感謝ばかりです。


2018.12.02 Sunday

ただあるのは


いのちのかがやき。





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