アクセス解析
レンタル掲示板
2019.04.23 Tuesday

じぶんの国のことば

 
先日の展示BOSQUEにお越しのお客様から
うれしい展示のご感想とともに、
次の元号が令和と決まったことについて、メールをいただきました。
その言葉の響きを聞いた時に
『これでもう大丈夫、安堵と感謝の気持ちになりました』
との旨でした。

元号に中国からの言葉ではなく、
大和言葉をつかわれたとたん、
音魂を受け取った方が多く、私も安堵と感謝を感じています。

そのいっぽうで、先日すごく奇妙なことを言う方もいました。
令和の令が命令の令だからいやだというのです。
でもそれはとてもおかしな話。
例えば
『幸福の幸は、不幸の幸だからいやだ』と言ってることと同じです。
まったく関係のない他の漢字をくっつけて別の意味にして嫌がっている・笑
大和言葉を音でみるということを忘れてしまっているのですね。
大和言葉にとって漢字の意味はまったく関係がありません。
(漢字の意味を消すためにわざと全てカタカナで書いたりするのも
言霊をみつめるのには一つの方法として効果的です)

国会にあがった案で、国立大学から文系を廃止するというのがありましたが、
どうなったのかな。
元号が令和になったことで万葉集が売れているらしい。
表面的なブームとはいえ、自国語が注目されることで
この案にストップがかかるといいなあと思います。
国が先だってこの国の言葉、勉強できる機会をもっと増やしたほうがいいよ。

自国をまずよく知ることが国際社会に向けての不可欠な基本中の基本だと、
私自身、文化交流をしていた経験からも言えると思っています。


2019.04.05 Friday

ヤベツの祈りから


“ヤベツは大自然に呼ばわって言った。
「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて
私が苦しむ事のないようにしてくださいますように。」
(旧約聖書 第一歴代誌4:10)


“人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。
しかし大自然は人のたましいの値うちをはかる。
あなたのしようとすることを大自然にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計画はゆるがない。”
(箴言16:2、3)

--------------------------------------------------------------------

イスラム教では聖典を翻訳することを禁じています。
それを知ったとき、正しい見解と認識だと思いました。

翻訳の仕事に携わる機会があるといつも思うのですが、
言語を訳すということは
原文から逸脱して、
それを訳した人物の人生観や経験、知識、物事に対する認識などが
反映せざるをえません。
言葉というものはほんとうに厄介なもので、
特に民族や文化を深く反映してきている聖典や
それにかかわる文書においては顕著に、
その文化が元々ない国の言葉に訳された時点で
原文とは別物になっている、と考えた方がよいでしょう。
(だからこそキリスト教においても、神学では、
原語であるラテン語を学び読むことを重視しているのでしょう)

そういうことをふまえながら、
キリスト教の聖書から上記の言葉を書きだし邦訳してみました。

ただ、一般的に販売されている聖書では
「神」や「主」と邦訳されている部分を
「大自然」と私は訳させてもらいました。

「神」を何とあらわすかは、
国の文化、民族性、歴史、そのほか様々なものが混入しており、
一概に「これが神です」とは言えないものだと思っています。

ただあくまで私の認識から、「神」という言葉は
「自然」という言葉に置き換えることができるという気づきがあり
上記の邦訳をしてみましたが、
非常に違和感のない心に届くものになったように感じました。
「神」や「主」と書かれていた時よりもよほどすんなりと理解できます。

スペイン語ではカトリックの神のいわば御神徳を指して
Espíritu Santo(聖霊/聖なる魂)と言います。
聖なる魂がなにか?と心に問うたとき、
私はやはり「自然」を無視することができません。

この認識で持ってもう一度聖書を読み直してみたいと思っています。



以前、スペインに住んでいたときに、土着のカトリックと、
日本の土着の古神道がとてもよく似ていることに気づいて感銘を受けたことがあります。
ただ、それを日本の友人に説明することが大変難しかったのを思い出しました。

宗教として教義や聖典などの物質や目に見えるもの、言葉にできるところではなく、
この地上に生きる生き物としての自然へのかかわり方、超自然へのかかわり方、
あるいは認識の仕方が、
土着古来の宗教というものには色濃く反映されており、
そういう部分でもって
土着のカトリックと古神道は大変近しいものだと感じたのです。
そしてそういった土着のものである以上
圧倒的な「自然」という存在の上でみな成り立っているのだと強く感じました。

そう感じた具体的な意味合いや、言葉でも説明できるような事柄が、
もしかしたら、上記したようにキリスト教の聖書にでてくる「神」という言葉を
「自然」という言葉に邦訳し直すことで
日本人の心に届くものとして、もしかしたら浮かび上がってくるかもしれません。

『祈る姿はどの国もどの人種も同じ。』
と、様々な国を旅してきた友人が言いました。

宗教とは護符でも依存の対象でもなく、ましてやプロパガンダなどでもなくて、
あくまでこの大地の自然に生きる上で、人にとって必要なひとつのツールであり、
この宗教というツールでもっていつしか本質に触れることができたとき、
その本質とは、この地上のあらゆるものにとっての本質なのだと感じています。

その本質に触れることができたとき初めて
なぜキリストが十字架にかけられなければならなかったのか、という意味も知るでしょう。

4月14日から始まるカトリック最重要である祭祀、セマナ・サンタ(聖週間) によせて。


2019.04.02 Tuesday

ことだま

 
うつくしいことだまが
新しい元号に選ばれて本当によかったなあと思っている。

レイワ。

ことだまの響きは、
人それぞれの魂の在り方によって
それぞれに異なって聞こえるのかもしれないけれど、
私のところに来ているご縁では、

「レイ」は、自然の力で調う美しさ。

「令月」も、
「令泉」も、
令/レイは、
一点の曇りもない
うつくしく凛々しく調った魂を持つ。

「ワ」は
皆善の和であり
カミーノ(=自らの道)に還る環。


また、語尾の母音が「あ」で終わっているのもとても良い。
解き放つ音。

いつも海へいくと、何か言葉を投げかけるとしたら
「あ」になるのですよね。
「い」でも「う」でも「え」でも「お」でもなく、
海にかける言葉はやっぱり「あ」だと実感したことがあって。
(ちなみに山にかける言葉は「お」。)
瀬織津姫へ贈る言葉は「あ」の母音によることだまなのかもしれない。


これまで中国からの出典だった元号が、
日本の万葉集から選出されたというだけで
これだけ豊かにことだまがご縁を結び
動きだすものなのだなあ、と驚いています。

(キリスト教における聖書のような聖典がない古神道に於いては
記紀とともに、万葉集などの幾つかの古典も、
学びの上で聖典に匹敵する程の非常に大切な書物とされています。)

物質から精神の世の中へ。
この言葉が元号に選ばれたこと、
ひとびとの思惑をゆうに超え何か神意が働いたと思えて仕方がない。



山桜が満開です。


2019.03.28 Thursday

癒しと調和


先日におぼえがきに
富士山噴火により埋まってしまった関東の古代文明のお話を書きました。
ポンペイのように短期間での話ではなく、
富士山は歳月を重ねて繰り返しの噴火がありました(そしてこれからも)。

それは地球が生きているということの証の一つです。

富士山の噴火を人の力で止めることはできません。
止められたとしても
そのしわ寄せが他に現れ出るだろうことは想像に難くありません。

気功の学校で学んでいた時によく先生が言われていたことが、

『ツボの経絡などはなるべく皆さんにお伝えしないようにしています。
知識や意識は体が持つ自然が調おうとすることを邪魔してしまいます。
確かにツボの経絡のような知識は[便利]かもしれません。
しかし体が調う自然の治し方というのはそんな単純なものではなく、
どういう仕組みで、どこからどのように調ってゆくのかは全くわからないのです。』

そして、体の声を聴くことと直感に従うことの大切さを問われました。
非常に理に適った本当のお言葉だと今も感じます。

富士山の噴火も同じことですし、
その他人間が[自然災害]と名づけているものも全て同じことです。

つまり、人のものさしで狭い範囲の利己利益をはかってこその
[自然災害]という意識であり、
本来は災害でも何でもなく根本的に地球の癒しなのだと思います。
そしてそれを忘れてはならないと思います。

忘れて目先の人利益のみを考えた対応をしていると
必ず他にそのしわ寄せが顕れることでしょう。
それはまた長い目で見て人の首をも絞めることになります。
(科学も現代医療もまったく同じことが言えます)

自然は本当に細やかにすみずみまで行き届いた完全な癒しを
長い時間の単位の中で行います。
人の最先端の科学がいかに遅れており、幼稚で稚拙なものか思い知ります。

自然に沿った深い心があれば
人も自然の中の砂の一粒であることの幸福を知ります。
命の根源に届く他に比べようのない幸福を
自然はたった一粒の砂にも与えてくれるのです。
実際にサンティアゴの巡礼で何もかも削ぎ落とされた時、私はその体験をしました。
あの至上の幸福は決して消えることはありませんし、何度も現れます。

本来こうやって大地に癒され生きるのが大地の子であり
人も決して自然の中の例外ではありません。

現代人は本当に鈍くなってしまいました。
地球の歴史から見たらほんの数秒にも満たない経済社会が生まれ
その洗脳による利己主義が
自然の仕組みを大きく崩してしまいました。
自然は調えるために癒しを起こすのは当然です。
それは長い目でみてこの大地のすべてが調うために起こすのです。
そして自然は決して間違うことはありません。完全に完璧に調えます。
意識や知識から人が手を加えたりさえしなければ、
すべて自然に任せていれば調う方向に行きます。
上記した気功と同じです。

余計なことをせず自然の声を聞く。
自分の体そのものが最も身近な自然です。
経済利潤の社会から完全に切り離し、
今まで常識と言われてきた人の意識の幻想から解かれて、
まずは自分の体の内の無意識の声を聞く。
それが、根源的な癒やしと活性化の道で他にはありません。
私も自らの体の不調から体験、実感しました。
最低限余計なことをしない。
自然に任せる。
それが隅々まで調えてくれる自然の力です。

体にとって必要のないもの、不自然なもの、害のあるものを蓄積しない、
という意味で、
体の排出力が高まってくると、
洗脳の世界では「アレルギー」というだけです。
根本を見ればアレルギーでもなんでもありません。
溜め込むと体に害があるので、体から輩出しているだけです。
判断の基準は「自然か不自然か」。
地球と自分の体がやっていることは同じです。
癒しと調和。

人の利益だけを追った価値観にとらわれず
よく考えてみることが必要です。


2019.03.12 Tuesday

うつしよのまにまに

 


花瓶に活けたチューリップの命がついえる時
それはいつからを言うのだろう。

花が枯れたとき?
でも葉はまだあおい。
人の美観にそぐわなくなっても
そのチューリップはまだ生きているように感じられる。


むかしインスタレーションの展示に使用するので
たんぽぽを野原から根付きで採ってきて植木鉢に植え
そして全く日の当たらない
ギャラリーの室内に一週間置いたことがあった。

展示期間中、萎れてきた鉢上げのたんぽぽに化学肥料を与えた。
するとみるみるピン!と萎えていた茎が持ち直した。
馬鹿な私はその化学肥料の威力に感心した。

それを見てギャラリーのオーナーさんは『可哀想に』と言われた。
そこで初めて気づいたのだ。
これは命の輝きではないと。

どこからが生でどこからが死なのか



自分の無力さを知って
自分は本当に馬鹿だと心底知って


そしてまた明日より生まれ変わる。



今までそばで命の輝きを楽しませてくれたチューリップは
夕方、波がさらってゆきました。





高山之末短山之末より
佐久那太理に落多支都
速川の瀬に坐す瀬織津比廚髪梢
大海原に持出なむ

如此持出往ば
荒塩之塩の八百道の八塩道之塩の八百会に坐す
速開都比廚髪梢
持かか呑てむ

如此かか呑ては
気吹戸に坐す気吹主と云神
根国底之国に気吹放てむ

如此気吹放ては
根国底之国に坐す速佐須良比廚髪梢
持さすらひ失てむ

如此失てば
今日より始て罪と云ふ罪は不在と
祓給ひ清給ふ事を 
天津神
国津神
八百萬の神達共に
聞食せと恐み恐み申す





2019.02.19 Tuesday

肩書

 
今回の旅でご紹介いただいた方々に
私の仕事について言葉で説明をする場面があったのですが、
私の仕事が単純にカテゴライズできる内容ではないため
こういう場になるといつも説明がむずかしく思っていました。

便宜上「陶芸家」という言葉を使うこともあります。
けれど日本で陶芸家というと、非常に狭い範囲にとらわれ、
私の作品がその狭い枠に収まっていないことを
まるで間違ったことのように指摘されることもこれまで多々ありました。
日本人にとって陶芸という言葉は
それほど実用器に限定して使われている言葉のようです。

私が解放されたのは
スペインの窯元で暮らすようになってからでした。

スペインで陶芸家に相当する言葉はceramistaになります。
けれどceramistaの守備範囲は人の生活に密着して相当に幅広い。
器はもちろんですが、タイル文化があるので、
教会などのマリアやイエスのタイル画を描く
ceramistaの仕事は画家と変わりありません。

タイルということで言えば、
通りの名前を記すタイル、ベンチ、橋、広場、
さまざまな公共物の絵画装飾もceramistaの仕事です。

立体造形であれば、
電気の傘も電気屋さんに行けば当たり前のように陶のものがありますし、
洗面器など洗面所各所に使われる陶器は日本でも見かけますが
装飾性・作家性が高いものが多くみられるのもスペインならではで、
これもceramistaの仕事です。

普通のお家でも食堂のテーブルセンターに飾りオブジェ
(実用性がない正にオブジェです)を置き日常を楽しむ習慣がスペインにありますが
このオブジェにも陶のものも多く、
また季節ごとに飾り変える部屋飾りのインテリアオブジェ
(彫刻的な立体作品や壁掛けのものなどさまざま)、
パティオと呼ばれる涼をとるための中庭の文化があるので
中庭を装飾するための絵皿やオブジェも需要があり、
これらオリジナリティの高いオブジェの仕事もceramistaの仕事です。

実際スペインのceramistaの友人たちは、
タイルの絵付けをする画家もいれば、
オブジェのみつくっている造形家もおり、
またもちろん器を作っている作家もおりますし、
私が居た窯元の名産である伝統的な水がめを
大きな町のお土産屋さんに卸している職人さんもいます。
みんなすべてceramistaです。

日本で自分の肩書を『陶芸家です。』というと
型にはめられる息苦しさを感じますが、
スペインで『ceramistaです。』というと、
必ず『何を作っているんですか?』と必ず聞き返されます。
それほど守備範囲が広いのが陶芸の仕事だからです。
日本ではカテゴライズできない私の仕事も
スペインではceramistaの一言で済みます。



お話をはじめに戻しますが、
今回の旅でご紹介いただいた方々に私の仕事について説明をする場面があり、
私は、上記のような説明を長々とさせていただいたのですが、
みなさん丁寧にご理解を持ってお話を聞いて下さったのがとても嬉しく思いました。
土地のおおらかさ、ゆったりとした感性の豊かさ・柔軟さを感じました。

浅いお付き合いでよしと思うときや、
その時限りの流しでのお付き合いの場面では
便宜上「陶芸家」と名乗ることもあります。
そのあたりは、日本ではうまく使い分けていけたらと
(陶芸家という枠に閉じ込められ苦しめられてきた身としては
状況を見てなるべく心がすり減らない方法をとろうかと)今では思っています。


日本で私の作品をご理解くださり、
お力添えくださっているギャラリーオーナーさまがたには
本当にいつも私の肩書の表記についてはお気遣い頂いて恐縮ではあるのですが、
正確に把握しお伝えしたいというお心遣いが本当にありがたく、
作品をお取り扱い頂く安心感にも繋がっているところです。
これはもう本当に感謝です。

自分の日本の名刺には、あまり枠にとらわれない印象がある日本語として
造形家と表記させてもらっています。(これまた便宜上となるのでしょうけれど)
じっさい肩書など作品そのものにはまるで関係がないことなのですが、
この世に生まれてきた作品たちが
すこしでも滞りのない目でご覧いただけるよう配慮するのも
私の役割かなとも感じています。


2019.01.23 Wednesday

土に還る

 
スペイン帰国以来ずっと作品を見てきてくださっている方からうれしいメールをいただきました。とても理解が深く、私自身ハッとすることもあり感激しましたので、
ご本人の許可をいただきそのまま転載させてもらいますね。


『縄文土器が成熟するにしたがってどんどん実用性とは異なる表現のほうに、
もちろん土台は器とか甑でご飯も炊けたりするんだけど。
それ…使いづらいよねって方向に
しかも大地のうねる鼓動が聞こえるような表現のほうにどんどんよっていくのが、
MAJOさんの作品が器から離れて器は表現の土台で器じゃなくてもいいんだけど
器に描くのが表現として良し。とか
別に鍋じゃなくていい、フタだけで良し。でも鍋でもいいよ、とかいう方向に変化してるのが
縄文土器とおんなじだなあって思ったんだ
それで土と本当に関わっていくとこの方向にいきたくなるよなあって感じたよ。
縄文展で最後のフロアに世界各国の古代の土器が展示されてたんだけど
西洋は…というか他の地域もみな
初期から成熟に至ると初めは装飾も見られたのにどんどんシンプルかつ使いやすく
合理的なデザインになり、もう器や調理器そのものでしかなくなっていったのが面白かったよ。
使いづらい方向に、でも土の力がどんどん高まる方向に進化してるのは日本の縄文土器だけだった
自分たちは本当に豊かな国にいるなあって思ったよ』



縄文土器は、道具としての狭い視野での器を超え、
土とそれにまつわる自然のすべての力を内包したもので、
それで食にかかわる煮炊きをすること自体ものすごいエネルギーを
発するのではないかと感じます。

このメールをいただいて、
この宇宙、惑星、自然とのさらに一体感を極めたものを作りたいと強く思いました。



これまで詩と陶のコラボレーションでご協力いただいているアントニオD.L.氏が
アルハンブラ宮殿を例に挙げて、文化が極まると装飾文化も極まる、
というようなことを言われていましたが、
スペインにおけるイスラム王国(アルアンダルース)の終焉地に建てられた
アルハンブラ宮殿のめまいがするような宇宙的な緻密な装飾にも
縄文文化に通じる高い精神性を感じます。

日本が特殊なのは、その縄文文化が外的圧力により寸断されていないということでしょうか。(縄文から弥生へは長い年月をかけて緩やかに変化した、という説を私はとります。)

スペインの陶芸の町に住んでいたとき
そこの陶芸美術館で、
日本のような歴史の流れの中で時代による緩やかな変化ではなく、
たった数百年の間でみても
その時代時代によって制圧したよその国の文化がいきなり入ってくるので
それまでの文化がぷっつり途切れ全く異質のものにとってかわるのにショックを受けました。
それまでの時代の器と征服後の時代の器では全く流れのない別のものにとって代わるのです。
宗教的な意味もあり、それまでの文化は消し去られる。
器一つとっても、征服されるということはこういうことかと目の当たりにした思いでした。



世界から見て日本人が手先が器用だというのは、
私はこの縄文文化の流れが寸断されずに現代まで
目に見えない血の中に受け継いでいるからではないかと感じています。

手先が器用、というのは、作業が丁寧であるということ、
作業が丁寧であるということは心穏やかな環境であるということ、
心穏やかということは精神的に満たされている、ということ。

「忍耐力がある」「我慢強い」という言葉をスペイン語では、
tiene paciencia というのですが、
pacienciaの語源はpaz平和、であり、直訳で「平和を持っている」となります。
「忍耐」とか「我慢」と邦訳してしまうとニュアンスが違いますが、
そもそもの状態として、
「心穏やかに十分な時間をかけて丁寧に満たされた精神状態でいられること。」を
表しているのだと思います。
それを「平和を持っている」とスペイン語では言い表すのです。
それができない人がはたから見たらそれが「我慢強い」になるのかもしれませんが、
心が満たされ平和を持っている本人には関係がないことですね。
他国から見たら日本では時代遅れの縄文時代が異常に長かったけれど
それはこの時代が突出して精神的に満たされていたからなのだと感じます。
そしてその精神の充足は自然に添うところからきていると感じています。

なんだか今の私の作品作りにとても似ています。



日本の縄文時代があんなにも長く続いたのは、
精神が満たされていた、ということに他ならないと感じます。

精神が満たされる生活、現代社会もこれからここへ還って行くと私は思います。
物質的利潤の世界の中で手先の器用さだけを切り売りする時代は終わりました。
若い年代の人を中心に多くの人が気付き始めています。
もう子供たちが小学校へ通わないのも大切な意味があります。

これまでの進化は退化と同じことでした。
縄文人の優れた感性は、
人の能力を退化させる最新の医療や最新の科学をゆうに超えたものがあります。
もともとその力を自然のなかで人はもっており満たされていた。
そこへ還る。

そういうことなのだと思います。


2019.01.10 Thursday

『創造性と個性の殺害、知性の虐待の罪』


新宿のオペラシティのロビーで子供の絵画の展示を見たのはもう何年前になるだろう。

そこでは子供たちが描いたすべての絵が、
同じモチーフ、同じ色で、画一的に描かれていた。

皆同じ絵で、変だな、と私はまず思った。

見本そっくりに描いた子が高く評価されていた。

こんな絵画教室、私は恐ろしいと思った。




私は中高大と美術学校に通っていたけれど、
高校時代は暗黒だった。

なぜなら美術の時間の全てが美大受験にあわせてのカリキュラムに豹変したから。
受験に合格するためのコツや技術。

受験に出そうなモチーフを描く練習。画材も美大受験に合わせて指定される。

これは美術なのだろうか??
暗黒の高校時代。
私は絵が描けなくなってしまった。
純粋に大好きだったことが穢されてしまった。



現在学校に行かない子供たちが増えているという。
私の身の回りでも多い。
私はそれは自然の流れで当然だと感じている。

小学校の美術では、既製品のスタンプを渡され、
そのスタンプを使って「見本の様」に上手に押してアジサイを描けたら
良い成績がもらえる。
見本から外れた絵を描いた子は先生から注意される。
注意された子供は苦しんでいる。
創造力に長けた子供ほど苦しんでいる。



県立の芸術の家という体験施設で7年半ほど陶芸を教えていたことがある。

在る年から、公立の学校が少子化のため美術の先生の雇用を失くした。
美術の授業は社会の先生やそのほかの教科の先生が代わりに担当することになり、
美術の事など分からない、という先生たちがこの県立の芸術の家に研修にくることになった。

そういった先生たちに私が教えていて感じたのは、
まず、先生たちの基本的なマナーがなっていないという事。
使った道具を片付けない。
人の使っている絵の具を無断で横から使用するなど。
絵の具の付いた筆を洗うのも面倒くさい、
自分が使う絵の具を棚に取りに行くのも面倒くさい、
面倒くさいことはここのスタッフが全部やってくれるんだろう、
というのが態度に表れている。

『美術なんて大嫌いなのに、やだやだ。』と言いながら
工作の研修をする女性教員もいた。

先生と呼ばれる立場の人たちがどこかおかしい。
感覚が鈍っている。
これから先はこういう人たちが子供たちに美術を教えるのかと思うと絶望的な気持ちになった。



スタンプで見本どうりにアジサイの絵が描けたら良い点をもらえる。
オリジナルなものを作ったら、先生に注意される。

これは象徴的だ。

私が小学生のころ歴史のテストで、
何も思考せず、創造もせず、ただそのまま年号を書き入れただけで
点数がもらえる、ということに対して疑問を感じたのは正当だったのではないか。



友人の紹介によりこちらの画像をみてみた。
まさに。。

『【日本語字幕選択可】Prince Ea 「学校システムを告訴する」I JUST SUED THE SCHOOL SYSTEM』


「おとなしく座り 発言の前に挙手し
短い昼休みで 8時間拘束し
言われたことしか 考えず
Aをとるために 競い合って
この表記は 製品の品質を表すものです
A品質の肉 確かに分かり易い
(中略)
今必要なのは 創造的 革新的 批判的 自立的に考えて
つながることができる人です
(中略)
説明してください あなたはなぜ生徒たちを
クッキーの型や野球帽のように扱うのか
(中略)
みなが 異なる長所と ニーズと
ギフトと 夢をもっているんです

その子たちに 同じやり方で
同じことを教える 恐ろしいことだ
(中略)
これは 過去最悪の犯罪の
一つとして 認められるべきです。」


2018.12.31 Monday

『私の舟に乗りなさい。』

 
今年の6月、
高熱、頭痛、呼吸困難、激しい動悸になり、立ち上がることも困難になり、
何も食べられなくなり、どんどんやせ細ってほとんど骨と皮だけになってしまったとき
ぎりぎりの状況で自然農法のマクワウリに命を救われました。
約ひと月ものほぼ寝たきり状態は人生初めての事でしたが、
家から徒歩3分というこの時休み休みでぎりぎり歩くことができた近さに
このマクワウリを売るオーガニックのスーパーがあったことも大きく幸いしました。

その後も、基準の厳しいオーガニックの野菜たちをお送りくださる方が表れたり
また鎌倉のぺいすさんから食をつないで地上の楽園を体現されていることに衝撃を受け
心身共に、文字どうり大地に足をつけるようにして着実に回復することができました。

この経験も感謝と気づきに満ちたものになりました。
自分の作る調理も劇的に変わりました。それは意識が飛躍的に変わったからだと思います。



自然農法はまず大地を耕してはいけない。
土の中のバクテリアや菌やカビは、とても上手に住みわけして循環して土を豊かにしている。
多種多様な草木が生え、虫や鳥、へびやタヌキがやってくる自然の森を作る。
その循環のなかで成った実や野菜を頂く。
自らも自然の循環のひとつとなって。

耕すことでその大元のバクテリアや菌やカビが生態系を壊されて土が衰弱してしまう。
一度耕されてしまった土は元に戻るのに何年もかかる。
それだけ自然の豊かさは繊細に完璧に生態系を構成している。

自然から切り離された利潤の世界ではこうだ。
高価な耕運機を売りたいがために耕すことがいかに必要かを説き、
そうして土を衰弱させ、
衰弱した土では野菜も満足に育たないので人工肥料を売り、
人工肥料により虫がたかりやすくなるので農薬を売る。
本来自然に任せて人は特に何もしなくても実がなる、ということを知られては
大手の組織がお金が儲からないので、この悪循環がさも正しい農法の様に伝えられる。
(こう書きだしてみたら日本のいまの医療もまるで同じよう。。)

最近読んだ本2冊に同じことが書かれてた。
一冊はリンゴの有機栽培農家さんの本。
もう一冊はシベリアを舞台とした現代のノンフィクション。

自然農の視点から見たら
多くの人はなんと無駄で余計なことをしているのだろう。
お金と言う人工的なものが介在することで
たったひとつのリンゴを食べるだけでも複雑化し、
たったひとつのリンゴもお金が無ければ手に入らない。
「労働と疲弊」の麻痺したお金社会。

森に出てリンゴをもいで食べる。
ただそれだけのことなのに。

お金社会が起こすのはエントロピー。
自然の循環が起こすのはコヌルコピア。

リンゴの有機栽培農家さんがあたたかく笑いながら言う
『私の舟に乗りなさい。』。

ここにも箱舟が来ていると、感動の鳥肌が立った。




昨日のパンが焼けました*
窯から出たてをいただけるのは自分で作ってこその楽しみ。



有機リンゴの酵母の良い香り・・・ありがとう。いただきます。(*^-^*)


2018.12.21 Friday

食はこの地上に生きることそのもの

 
石臼での製粉〜袋詰めまで一貫してる小さな小麦農家さんの小麦粉が
気に入っていて買わせていただいているのですが、
先月、ちょうどストックが切れたので注文したところ、
”小麦の刈り入れ時なのでしばらく袋詰め作業ができません。”とのこと。
ご夫婦でされているところのようですので、人手がないのでしょう。
こういう「人」らしい展開、好きです。
小麦の刈り入れ、どうぞ心ゆくまでおつとめして下さい。
それまで私は信頼している個人店のパン屋さんで買うことにしました。

そうしてようやく先週くらいから
小麦農家さんの小麦粉の販売が再開されました。

早速、この秋の柿やりんごで起こした自家製酵母でパン作りです。
天女の羽衣のような至福のパン生地にふれていると、
自分の振動までも繊細になるのが感じられます。。

そうしてひさびさに自分で焼いたパン*
1次発酵はいつものように台所に放置。
暖冬とはいえ酵母にとってはかなり気温が低いので
満足いくまで膨らむのに約二日かかりました。
ただ、低温発酵させたパンは非常に味わい深くなることが分かっているので
(なのでわざと冷蔵庫のなかで発酵させる人もいます)
冬は冬で時間をかけるパンの楽しみがあるのです。

2次発酵は、晴れていたこともあり、
縁側に置いてぽかぽかの陽光のもとで自然発酵。
2時間くらいで1.5倍に膨らみ、
更にオーブンの中でその倍に膨らんでくれました*

ふわふわもちもちで
ついついあっというまに半斤ほどぺろり。




私が住んでいる場所の地域性だと思うのですが、
ビーガンやオーガニックへの関心が高く、
小さな町なのにそういったカフェや食堂が意外と沢山あります。
私が引越してきたここ数年で特にそういったお店が増えてきているのも感じます。
逆に私の様に食による体の不調により
そういったお店を求めている人が増えてきているのかもしれません。

私も体の不調が教えてくれたことで食への関心が高まり、
今たべているものがどこから来たのか、
どうやって来たのか、
関心を持つようになりました。

せっかくここに住んでいるのだから
ここの地域性を利用させてもらおうと、
ここ最近は、ビーガンの陰陽によるお料理教室や、
オーガニックカフェ主宰の種子法や野菜についてのお話会などに参加してみています。

人それぞれの状況や環境で歩んできた道の中で
気づいたこと、疑問に思うことなどの情報交換や
顔を合わせてのコミュニケーションは、
ネットや誌面からは決して拾えない
繊細な波調をともないながらのやり取りをすることができます。

声高に、というのではなく、
とても穏やかな中で、ひとりひとりの食が
これからの世の中を変えてゆくかもしれない、とも感じさせられます。

穏やかな強さ。

食からのコミュニケーションを通じて
自分の内なる感覚が磨かれる思いの毎日です。


Calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>
生活をみなおそう
                       
MAJOホームページ
http://majo.moo.jp
MAJOへの仕事のご依頼
展覧会や委託販売、制作などお問合わせは まずはメールにてご連絡下さい。 majo_ceramica@yahoo.co.jp
Profile
MAJOプロフィール
 
Live Moon ブログパーツ
 
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Profile
Search this site.
Others
Mobile
qrcode