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2020.03.07 Saturday

「ベニスに死す」

 
ここ最近きゅうに見たくなった映画。

昨日、海岸で夕日をみていたら
映画の中でグスタフ(原作ではアッシェンバッハ)が
この世を去る時の場面が思い起こされて
やっぱり見たいなあと相成りました。

陽光の中タージォの指し示す方向に魂を預け
この世界を離れるグスタフ。

改めてこの映画を見直してみたら、
グスタフが亡くなる場面は夕方という訳ではなかった。
(グスタフという名前に慣れないな・・
以降、原作どうりアッシェンバッハと記します。)

なにより今回見直してみて驚いたのが、
この映画、まるで今のコロナの状況にそっくり。


舞台はベニス。
メインの物語が進行してゆくその陰で
同時にベニスの町の隠された状況の変化が描かれています。

ベニスはシロッコの吹く町。
湿度を持った熱風にやられたかのように突如町中で倒れる男。

ベニスの町中に消毒薬がまかれ始めます。

アッシェンバッハは不安に思い、
町の人々にその理由を尋ねるも誰も皆口を固く閉ざし
本当のことを言いません。

町中の消毒、そしてあちこちで何かが燃やされ煙が上がっています。

アッシェンバッハは銀行員からようやく事の真相を聞きだす事ができます。

「アジアコレラ」が流行っていると。
インドのガンジス河から発症し、
中国、アフガニスタン、ペルシャ、ロシアへと蔓延し
ついにはヨーロッパに上陸。

ベニスは観光収入が途絶えたら命取り。

当局から真実を語るなと住民におふれが出ており、
故に疫病対策に関して無防備状態でした。
すでにベニスで2人の感染者が見つかり、
ひとりは船員。
もうひとりは八百屋のおかみでした。

時間の問題です。
アッシェンバッハは片恋の愛する人とその家族に事の真実を知らせるべく、
そして一刻も早くベニスから立ち去るようにと
タージォとその家族に進言するのでした・・



こんな風に書くと、「ベニスに死す」という映画が
まるで別の物語のようにも感じられます。

しかし、今回の見直しで、
こういった状況の中でも揺るがない幸せとは何か、
別の言い方をすれば、
死をも超える根源の幸せとは何なのかということがより一層鮮やかに
この映画で描かれていたのだと気づくのでした。。

 
 

 


 

 

2020.01.10 Friday

生まれなおし

 
最近突然「美女と野獣」まつりになり(ふとした旋律から
ぐるぐると、音楽のみならず数々の名場面が頭の中で回りだし
その世界観から抜け出せなくなるというミュージカルの麻薬状態のこと)
もはや10年以上前に見て以来の古いVHSビデオを引っ張り出して久々に再見しました。



ディズニー映画の中で私が唯一持っているビデオがこの「美女と野獣」。

ロードショー封切でこの映画を映画館で見た当時、
女性主人公のベルというキャラクターが、
今でこそ「アナと雪の女王」のようなプリンセスの個性が掘り下げて描かれていますが
その当時、ベルというキャラクターの登場は
それまでのシンデレラや白雪姫といったステレオタイプのプリンセスにはない、
既存の価値観に流されない自分の価値観を何より大切にしている人物である
というところに私は親しみと好感を持ちました。
(アニメーターの友人によるとやはりこの作品は
ディズニーにとってひとつの転機になった作品だそうです)

さらに今回の再見でハッと気づいたことがいくつかありました。

まず、ガストンというベルに結婚を強要する自意識過剰で利己的なキャラクター。
主人公であるビーストとガストンはイコール(同一人物)である、
そういう風に描かれているということに気づきました。
物語の中でベルはガストンに言い放ちます。
『あなたこそほんとうの野獣だわ』と。
映画館でこの映画を初めてみた当時は、
ガストンがバルコニーから転落して死ぬ場面で
『ディズニーなのに人が死ぬんだ!』と吃驚したことを覚えています。
けれど今回、
このガストンの死というのは、
ビーストの内にあったガストンという部分が死んだのだ、とわかりました。

そしてビーストもまたガストンによって負わされた傷によって息絶え、
けれどそのとき彼の内には眩しいくらいに輝くピュアな部分だけが残っていて・・
その目に見えない魂の輝きが天に通じ・・
ビーストの死体がゆっくりと旋回をはじめ・・光の泡が立ち・・
それはまるで胎児がおかあさんのおなかの中で変容するように
ビーストは王子へと生まれ変わったのでした。
(このあたりの展開の間のとり方が絶妙で、百戦錬磨のディズニーさすが)
これはまさに「生まれなおし」の映画だったんだ!と気づきました。


「美女と野獣」という映画はモノクロ時代に作られたジャン・コクトー監督の作品も
むか〜しテレビで見たことがあるのですが(調べてみたら1946年制作のようです)
その時も、そしてこのディズニーの「美女と野獣」でも、
物語の最後に魔法がとけて王子になるわけなのですが、
見てる側としては、
野獣の外見そのものに愛着がすでに湧いてしまっていて、
かっこいい王子になることに価値を全く感じないのですよね。
むしろ野獣の姿の方が良かったとすら思ってしまう。

観客にこう思わせてしまうのは映像映画の表現として失敗なのでしょうか?
それとも・・
そういえばカミーノ(サンティアゴ巡礼道)を歩いたときに、
最終目的地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を目指していたはずなのに
じっさい最終的目的地の大聖堂に到着してもそこに価値があったのではなく、
それまでの道程にすばらしい価値があったのだと気づいた、
あの感覚に似ていると思いました。
美しい王子になることに価値があるのではなく、
これは魂が磨かれ生まれ変わる、そのこと自体が価値だったのだと
きっと観客も「王子じゃなくてもいいじゃん」と感じた瞬間心の中に体感することが
この映画の持つ価値なのでしょう。

今回の再見で、むかし見たときには気づかなかったことが
自分の積み重ねてきた経験を通じて実感をもって体感できたというのが、
いやーー映画ってほんとうにいいものですね、
って思ったのでした*
そして最後に、こちらが今回の「美女と野獣」まつりになるきっかけとなった
山崎育三郎さんの歌う「ひそかな夢」です。
育三郎さんは2017年ディズニーの実写版でビースト役の吹替えをされているようです。
(※私がもっているアニメ版「美女と野獣」にこの歌はないです)
 

  
  
 
 
もう表情が・・ビーストが憑依してますね・・さすが舞台の方。。舞台の麻薬。。
 
2019.12.18 Wednesday

くるみの殻の粉のタルト


絵画の原初を訪ねてフランスを旅していた友人から
旅のお土産にと、くるみの殻の粉をいただきました。



サンティアゴ巡礼道上にあるコンクという町のものだそうで
古くからくるみを町の産物としてるようです。

いただいたくるみの殻の粉にレシピのメモがついていたので
早速解読してみると、おそらく昔ながらの、
素朴なタルトの作り方でした。
何より面白いことに、このレシピを訳しているときに、
石造りの古びた建物の中に居るような感覚に包まれていました。

気になったので、後日になって
友人にこの粉を入手した場所について訊ねてみたところ、
使用している原料諸々から推察するに、
修道院で作られていた古いお菓子かもしれないね、という話に着地しました。

邦訳作業でこういった
今と異なる時空間に行くような感覚にとらわれたのは初めてです。
いつも絵付けをしているとき訪れる感覚にとてもよく似ていると思いました。
その土地の由来のあるものを訳す、という面白さを感じます。
塩野七海さんの描く本が好きだったのですが、
彼女もイタリアの公立図書館で、古書を次々にひも解いて没頭した、
というお話を何かのインタビューで答えておられていたので、
とてもよくわかる気がします。
そしてまた”紙に書いて残す”ということの力を感じます。

くるみの殻の粉以外にこのタルトのレシピに必要な原料の一部を
友人がお分けくださるというので、
今度このお菓子を再現してみたいと思っています*



 
2019.04.17 Wednesday

『神は本など書かない』


『偉業を成せると錯覚する者は多いが
人生を支配するものを忘れてる

自然が人間の侮辱に反抗する時が来る
自然は
万物を侮辱する全てを消し去るだろう』




映画「ポー川のひかり」を再見。

どうしてもこのセマナサンタの期間中に
もう一度見たいと思っていた希望が叶いました。


映画の始まりはサスペンスタッチで
宗教学者であり国際的に認められつつある大学教授が、
貴重な宗教学の本をことごとく釘でうちつけ磔刑にして
本人は失踪するところから始まります。

この大学教授がすべてを捨てて
流れ流れて川のほとりにある人里離れた田舎の村に住み着く。
村人たちはよそものの彼に対して初めから普段のように挨拶をし
親しみをもって受け入れていた。
大地に根ざし大地を信じて生きている人たち。

その風貌から大学教授は村人たちに
「キリストさん」というあだ名で呼ばれるようになる。

ワインもパンも何かのたとえではなく・・彼らとの日常は大地に根差したもの。
自然の中で生きてこそ、宗教ではなく、学問でもなく、
かつては聖書の中で読み学んだだけだった言葉たちが
まるで別のもののように魂をもって聞こえるようになる。

彼ははっきりという。
『神は本など書かない』と。



『誰もが生まれ直すべきだ。 最初から始めなければ真実は理解できない。』

余韻が残るラストもとてもよく、魂にしみいる映画でした。
しかも聖書に書かれたキリストの受難(磔刑となる最期の1週間)に
リンクさせながら描かれているのがすごいと感じます。

いまこの時にもう一度見られてよかった。




スペインに住み、
教会の中の宗教としての「キリスト教」ではなく、
民族の文化というものに根付いた「キリスト教」を日常の毎日から受け取りました。
それは木や草や風や大地に繋がるものでした。

私は小学2年生の時から自ら気に入ってキリスト教教会に通っていました。
幼いころ、聖書の中の物語はまるで桃太郎やかぐや姫のお話と同じレベルで
自分のなかに当然のもののようにして吸収されてゆきました。

中高大学と美術学校に進んだことで
宗教美術として、学問として、キリスト教をさらに詳細に学びました。

けれどスペインの田舎町に住んだとき、
これまで学んできたキリスト教というものが、
その民族から、大地や自然から、
切り離されたものだということを痛切に知りました。
スペインで感じ取ったキリスト教というのは
学ぶものではなく、
この土地に住む人々にとって
民族と大地と自然を無意識のうちに
血の中に流れるようにして結んでいるものでした。

大地の自然ありき、だったのです。

日本に帰国後、
スペインの教会で歌った聖歌や
歌によって感謝をつたえる手段の楽しさを忘れられず、
都内の大きなカトリックの教会の聖歌隊で
半年ほど歌わせていただいたこともありました。
けれど、スペインとは全く違ったのです。

日本のキリスト教教会には、
スペインにあったような大地も自然もありませんでした。
(ここは日本なのですから当然です。)
ただ教義だけが入ってきていたのです。

私を気づかせてくれ、導いてくれたものは、
キリスト教という書物の中の教義的な宗教ではなく
その土地に息づく民族的な大地や自然との結びだったのだと気づきました。


そして同じものが日本には
古神道という形でちゃんとありました。
それに気づくことができました。
気づくようにうながしてくれたのは
スペインの大地のカミーノ、サンティアゴ巡礼道での経験でした。

その人が生きている大地自然と、その人の魂は
非常に繊細で美しい振動で繋がっています。
自分で選ぶものではなく、
自然とそうなっているのです。

日本人ならお正月になんだか初詣に行きたくなってしまう。
スペイン人ならセマナサンタの行列に加わりたくなってしまう。

これなのです。
もうすでに日常の中に真理があります。
真理とは神のことわり。
大自然のことわりです。

だからスペインの土着のカトリックも日本の土着の古神道も
大自然との結びですから、とてもよく似ているのです。

私がサンティアゴの巡礼中にうけとった、
この大地の子であるという生命に届くほかに比べようのない幸福感は
揺ぐことのないものであり、それは宗教を超えてこの地上に生きるすべてのものに
むすばれているものだとわかりました。
そうカミーノが教えてくれました。



私が大地から直接受け取った真理を、
机上の教義からは何も見えてこない虚しさを、
この映画「ポー川のひかり」はとても美しく伝えています。


2019.04.03 Wednesday

星座の旋律

 



 
 これは水素ガスの分子運動なのです。
 水素ガスの分子が、一秒間にどれだけ多く
 他の分子にアタックする機会があるかということを示しています。 

 何回だと思いますか?

 100億回。100億回ですよ。

 生き物たちの身体を作っている分子たちだって同じです。
 生物でない無機物だって同じです。
 無機物のからだの中でだって、同じように分子たちは飛びまわり、
 いつもぶつかり合っているのです。

 そうなると、生きものも無機物も区別のつかない面も出てきます。

 そうです。そうなのです。

 こうしてじっと息をつめていたって、細胞は、黙ってないんだ。
 黙ってない細胞が沢山集まって出来ているのが人間なんだ。
 人間というのはだから、細胞が集まってやっているお祭りなんですね。


私は黙って氏の話に聞きほれていた。
賢治逝ってからすでに五十五年。
今となっては賢治が書き遺したところどころ途中のぬけた譜面を頼りに
氏と合奏してみるしかない音楽の、しかもその
あまりの美しい旋律にただ聞きほれていた。

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(「教師宮沢賢治のしごと」畑山博 著より)


2019.03.16 Saturday

vivir bien


ボリビアでは法律で制定されています。

-----------------------------------------------------
パチャママ法(母なる大地の法)


母なる大地の法は、つぎの諸権利を含んでいる。

自然の進行と生命の規範を維持する権利。

遺伝子を改造したり細胞構造を変化させることのない権利。

人間の変更を含まない生命サイクルおよびプロセスを持続する権利。

清潔な水への権利。

清浄な空気への権利。

平衡状態のためのバランスの権利。

放射性および有毒な汚染のない権利。

現地の居住コミュニティと生態系のバランスに影響を与える
巨大な基盤整備および開発計 画に冒されない権利。

さらにこの法は、「すべての核兵器、生物化学兵器の廃絶」
および「平和」と「調和」を 奨励し促進する。


出典・ちきゅう座「大地に法権利を与えるという画期的 なボリビアの「パチャママ(母なる大地)法」

-----------------------------------------------------


経済にとらわれた拝金システム社会は妄想・幻想でしかありません。
長い地球の歴史から見ても、真の生命の核心から外れて
本当に些末なことがいまこの現代の経済社会の中心になっているようです。

現実を、足元の大地を見て、そろそろ目を覚ますべきでしょうか。
日本は大変遅れているのを感じますが
それでもかなり多くの人々が気づき始めています。

女神の時代と言われていますが、
拝金主義を軸としたピラミッド形式にみられる男性性社会の中で
抹殺されていたネットワーク・コミュニケーション、つまり横の広がりを軸とする
女性性の時代に移行しつつあるのは
現実として多くの方も気づいているのではないでしょうか。

男性性社会の中で、女性性を殺し男性性に一生懸命に沿うことが
まるで社会人として正しいかのように思いこまされてきた日本でも、
若い世代を中心に核心(=大地)に近づくべく旧社会から離れ始めています。
また、横の広がりを軸とした社会ではピラミッド形式の旧社会に比べて
核心に近づきやすくなっていると感じます。
(ここでいう男性性・女性性というのは、肉体的な性別に限らない
世に表れているシステムや価値観、事象現象のことを指しています)

母なる大地に還り、
お金というものが存在しない、
そして所有しない世の中を
そろそろまともに見つめてもよい時期に来ているのかもしれません。





2019.03.03 Sunday

目線


毎週日曜日に配信される「言葉拾い」というメールマガジンを
もう10年以上も購読しているのですが、
時々、編集後記に面白いテーマが挙げられることがあります。
今号は「白目」のお話に付随してこんなことが書かれていました。
(以下転載になります)
---------------------------------------------

人は視線の方向で、

ある程度考えていることがわかります。

●視線が左上 --「視覚的記憶」
過去に見たものを思い出している。


●視線が右上 --「視覚的創造」
見たことのないことを思い描いている。
(嘘を言っている可能性あり)

●視線が左横 --「聴覚的記憶」
以前に聞いた言葉や音を思い出している。

●視線が右横 --「聴覚的創造」
聞いたことのない音を頭の中で創り出している。

●視線が左下 --「内部的対話」
自分自身と対話している。

●視線が右下 --「身体感覚」
感覚や感情をイメージしている。

上--視覚(映像)
下--感じている。考えている。
左--記憶
右--創造
横--聴覚(音)

といった分け方になるでしょうか。
(視線の方向は、本人にとっての向き)

※この方向は右利きの人の場合で、
左利きの人の場合、多くは左右が逆になるようです。


言語脳= 左脳 イメージ脳=右脳

--------------------------------------------
(転載ここまで)


まず、あれ?と思ったのが、
利き手によって右脳と左脳の働きが逆になるということは
あまりないのではないかなあということ。
左利きにクリエイターが多いのは、
左手を使うことが右脳の活性化に繋がっていると言われているので、
左利きの人のイメージ脳が左脳になってることはまずほとんどないのでは。

そう自分でふまえつつ、

私が過去に見たものを思い出しているときは
右上をみることが多いような気がしました。
上記では

●視線が右上 --「視覚的創造」
見たことのないことを思い描いている。
(嘘を言っている可能性あり)

と書かれているので、嘘を言っている可能性あり?笑
私が思うのは、見たことのないこと、というより
目に見える世界のみが記憶されているのではないのではないかなあ、
ということ。
私の場合、絵付けなどするときに明確なビジョンが現れますが、
それは自分が想像(創造)したものではなく
実際に別の界層に実在しているものだと感じています。

逆に、創造したり想像したりしてつくるのは私は苦手で
ビジョンが現れるもの=実在しているものしか作ることができません。
だから例えばある作品のことを思い出そうとするとき、
可視不可視すべて含めて思い出そうとすると思うのです。
そしてそれは、作品のことに限らずこの世のすべての事象に於いても
同じことではないかと思います。
目に目る世界と見えない世界を切り離して考えようとすること自体
土台無理なことだと思います。

そういった意味では
科学で解明できることって現実の事象からすると
まだまだ原始的だなあと思わざるおえません。

そのあたりに
いま縄文時代が取り上げられその高い精神性が浮かび上がってきている所以が、
これからの現代人へのひとつの課題として在るのかもしれませんね。


2019.03.02 Saturday

つれづれ

 
いまや日本でも知られている彫刻家・外尾氏。
氏の記事(下記にリンクさせてもらいました)を読んで
「本当に生きている」人の言葉だなあと思う。
そしてその「本当に生きる」ことに出会ったスペインの大地を思う。

NOMAD PROJECT
サグラダファミリアの主任彫刻家 外尾悦郎氏


気づかせてくれたのはスペインの大地。
気づいたのは自分。
だから本質につながる半分はすでに自分の内にある。

伊勢の遷宮にかかわる方が
「現代のように目先のことではなく
これからは1000年先をみなければならない。」と言われていた。
ガウディが見ていた方向。
外尾氏が見ている方向。
ここ日本でもまた同じ方向を見ている方がいる。



2019.02.28 Thursday

本のこと

 



写真はイタリア政府観光局のサイトよりお借りしました
パレルモの路上図書館と紹介されていましたが・・・ワクワクします。




子供の頃より読書が大好きで、
それはいまもずっと続いています。
けれど
「趣味は読書です。」と言うことには抵抗を感じます。
(趣味とは何だろう、という
これまた別のテーマとして考えるべきことかもしれませんが)

本は自分の人生そのものだなあと感じます。
本しかない人生だとしたら哀しいのかもしれませんが、
私の本は机上ではなくもっと活きた魂のうごきを映しているように感じます。
少なくともこれまでの人生を経てきて、今、手元に残されてきている本たちは
そうだと感じています。



幼いころは人間が大嫌いでした。
人間を全く信用していなかった、といっても過言ではありません。
読む本も人が中心になって展開するお話しには全く関心を示しませんでした。
もちろん人形遊びも大嫌い。
野生の活きた生き物が大好きでした。

野生の生き物の高貴さが世界でもっとも優れたものだと感じていました。
だから読む本も(その当時はそう信じていたので)野生動物の観察記や
写真集、図鑑など、丸覚えするくらいに読み込んでおり、
それらの本たちは今も捨てられずに手元に残っています。
今でもどこか、私の魂の中で、活きて光を放っています。



大人になるにつれていろいろな本を読むようにはなりましたが、
これもなぜか見事に海外文学ばかりを読んでいました。
古今問わず日本の作家の本が読めずにいました。
理由はわからないのですが違和感を感じるからです。

当時は新潮文庫の海外文学が秀逸で、
中高生の頃は学校帰りに新宿の紀伊国屋書店や、休日になると神田の本屋街で
すこしずつ気になる海外文学の文庫本を買い集めていました。
それらの本たちはもうすっかり紙も茶色く古くなってしまいましたが
まだ読めそうな状態のものは手元に残っています。

そんな中で唯一の例外の日本作家で、宮沢賢治の本を読んでいました。
これも新潮文庫からでていたもので集めていて、
このときの私は、賢治が日本人作家だとはどこか思っていなかったふしがあります。
しかも彼はクリスチャンだと思い込んでいました。
この時に買い集めた賢治の本は(当時出版されていたほとんどすべて持っていました)、
のちに地元のイベントでの古本市で、小学生の女の子にお譲りしてしまいました。
最近になって宮沢賢治の世界の作品を作るようになり、
手元に賢治の本がなくなっていて、ああ、そうだった、と思うのでした。



サンティアゴの巡礼道へと導いてくれたのも本でした。
これは今思えば私の人生に於いて
目に見えるわかりやすい形での大きな岐路となる本でした。
パウロ・コエーリョ氏の「星の巡礼」。
この本を読まなかったら巡礼はしなかったかもしれませんし、
いまの私も、作品も、なかったと思います。


そしてスペイン在住時の経験から自分の内の学びで欠けているものを感じ、
いまの日本の民族文化にとって要となっているものが古神道であることに直感し、
これもまた不思議なことに何故かサンティアゴ巡礼からのめぐり合わせで
沢山の主要な古神道の本と出会いました。

自分が本の遍歴を重ねるごとに、この大地に近づいていくのを感じます。
だからこそ私にとって読書は趣味とは到底言えず、そして机上のものとも言えず、
人生に於いてもっと核心的なものなのだと感じられているのです。



本はたいてい自分で購入します。
図書館で借りることもありますが、
そういった本はやはり自分の中でも『興味』でとどまるように思います。
同じ本でも手元にずっとあると見えてくるもの・読み込むものが
異なってくるように思います。

また「あ!」と思ったその瞬間にその本をひも解けなければすべて消え去ります。
インスピレーションにつながるものが手元の本に顕れることがあります。
そういう意味でも、紙に映され(写され、現され)、
それを綴じたカタチの本であることは、直感とつながるように感じています。
(デジタルのものは逆に勘を鈍らせるように感じるので近づきません。)

人に貸せる本と貸せない本があるのはそのためです。
いま手元にある私の本たちはまず人には貸せないものが多いです。
貸してその本の感想のようなものを良し悪しにかかわらず聞きたくもありませんし、
中途半端な学びの片棒を担ぐつもりはありません。
それは古神道的には僻事に相当するとも感じます。

同じその本が、人にとっては資料でも、
私にとっては、
私自身の学び道の中(=生きること)で魂をつなぐもの。
職人が自分の道具を決して他人に貸さないのとどこか似ているかもしれません。

水のような空気のような、あって当たり前、常にないと生きられないもの、
・・なんて書くとちょっと大げさかもしれませんが、
私にとっての読書や本はそんな感じのもののようです。



家の近所の古本屋さんが、
『本で曼荼羅が作れる。』と言っていたのが印象的です。

カテゴリ別や出版社、作家別、価格帯、
お客さんが見やすいように揃えてふつうは棚に並べるのだけれど、
本当は、本の宇宙に沿った、この自然に添うような並べ方があって、
大地から天へ、とか
人体の内から宇宙へ、とか、
そしてその循環がまたみなもとに還ってゆく、
そうやってこの世界のすべてを複雑に関わりあい構成する螺旋を描いた曼荼羅状に
本を並べるのが夢だ、と言われてました。
『でもやっぱりお客さんが選びやすく考えちゃって、
それがなかなかできないんですけれども。』と言われるのですが、
私はその曼荼羅が見てみたい、と思うのです。


2018.08.26 Sunday

良い空気?

  
最近はロクロ仕事中のBGMに、
ラジオの「夏休み子供科学電話相談室」を聞いています。

ある日こんな質問がありました。

子供
『良い空気と悪い空気があるのはなぜですか?』

質問された先生が言います。
『きみは、どういうのが良い空気だと思う?』

子供
『エアコンの空気。』

先生
『じゃあ、悪い空気は?』

子供
『避難訓練の時の空気。』

まだこの地上に生まれてまもない小さな子供は、最も自然に近い存在だった。
こういう環境の子供ばかりではないとは思うけれども、
この質問を聞いていたら子供の老化が急速に進んでいるように感じてしまった。



本やネットで調べた事に疑問を持って質問するのもいいけれど、
『山や海で実際に体験してくれたことから質問をしてくれることが
素晴らしいと思いました。』と言われた、
この「夏休み子供科学電話相談室」のある先生の言葉。

そしてさらに、一人の子供が先生に質答えてもらった後で、
『次は自分も人に説明ができるようになりたい。』と言っていたことに
感動された先生。

「夏休み子供科学電話相談室」、色々な意味であなどれません。


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