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2017.09.14 Thursday

最初の展覧会


そういえば、人生で初めて見た展覧会というものは、
親に連れられての都内デパートで開催していた岡本太郎展だった。
私はまだ幼稚園か小学生低学年くらいだったと思う。
物見遊山的にご近所ともども子連れで訪れたのでした。

極彩色に彩られた岡本太郎の作品たちは、
タイトルに「犬」とあっても、犬に見えない。

『わあ!なにこれ〜』
『めちゃくちゃだあ〜!』

そんな風に思うまま声に出す子供たちに親たちもほとほと困り、
そうそうに会場を立ち去った、という記憶。



長じて美術にかかわるようになり、
岡本太郎の作品はどうしても好きとは言えない部類のものでした。

ところが1冊の本が、私の岡本太郎の印象を変えました。

美大を出てから務めていた陶芸の工房へ片道2時間半、
往復で5時間かけて毎日通っていた時代、
電車の中でたっぷりとある時間を使って片端から本を読みまくっていました。

読みたい本を読みつくしたそのあとは、通勤途中の本屋の棚から次々と本を買い、
または図書館でかりまくって、読みまくりました。
その中の1冊に、岡本太郎の「青春ピカソ 」がありました。
初めて読んだ岡本太郎の本です。

岡本太郎の作風はなんとなくピカソを思わせるものがあるなあ、というところも
それまで氏の作品があまり好きではなかった理由なのですが、
(私はピカソの作品も人物も好きではないので)
しかし氏の書かれる本の中には、
その作品からは想像もできないほどの
岡本太郎ご本人のチャーミングなお人柄がうかがえました。
その一方で、ご本人自身と作品が何か、かい離しているようにも感じられました。

著作「青春ピカソ」では、
直接ピカソに会いに行く経緯と心情が描かれているのですが、
ピカソと対決するぞ!
これは対決なのだ!という気分の文面で書かれているにもかかわらず
隠しきれない「ピカソ大好き!!」というあふれんばかりのピカソへの愛を感じました。
なんだかかわいらしい人だなあ、、、というのが、
岡本太郎へ対する新しい私の印象になりました。

そのあと、作品ではなく岡本太郎という「人物」に興味を持ち、
著作を読んでみると、この方の書かれる書物はやはり興味深く面白い。
岡本太郎は、作品より、「本人」を、ほんとうは見るべきだったんだと気づかされました。

私が読んだなかでも「岡本太郎の東北」は特筆すべき内容でした。
私が日本の文化に深い興味を持つきっかけになりました。
そういえば岡本太郎は若いころに、フランスで活動していた時期があり、
そのままフランスにとどまるチャンスを押して日本へ戻ってきたのでした。
帰国して改めて、
日本が古来からえんえんと持ち続けている民族的な宗教と文化から気づきを与えられ、
(岡本氏の視点は、縄文時代を再発見し
それまでの日本の古代史観を書き換えたともいわれているようです。)
そしてまたそれがすべての民族に共通しうることであると気づく。
これは大変興味深いことですし、私自身の経験からも共感を覚えるところがあります。


以下、少し長い引用になりますが、
2011年12月に行われた岡本太郎生誕100年のイベントでの対談の一部になります。
(対談者は末尾に明記。)
こちらも読んでいて、ああ。。と感嘆の息がもれます。




太郎は死ぬまで理解されなかったと言って
いいでしょうからね。
でもそれを選んだのは太郎自身です。
だって、パリに戻らなかったわけですからね。
戻れば順風満帆だったはずなのに。

太郎は19歳で渡仏し、22歳の若さで
抽象芸術運動の
ど真ん中に迎えられるわけです。
そのときのメンバーの顔ぶれを見ると‥‥

ーすごい巨匠ばかり。

そう。
しかも同時にシュルレアリスムの連中とも
つきあっている。
いわば、世界選抜チームを
渡り歩いたわけです。
人脈にしろ、キャリアにしろ、言うことなし。

戦争が終わって、パリに戻っていれば、
うまくいくのは目に見えていた。
だけど、帰んなかった。なぜだろう?
本人は
「俺はパリを捨てた人間だから、
 もう戻る資格はないんだ」
みたいに言ってるけど
とてもそんな程度の話とは思えない。

これは敏子に聞いたわけじゃなくて、
単なるぼくの推測ですけど‥‥
もしかしたら強烈な使命感が
そうさせたんじゃないかと思うんです。
いわば岡本太郎は、草野球しか知らない国から
ひとり大リーグに渡った人でしょう?
帰ってきたら母国はまだおかしなルールで
草野球をやっていた。
それを見て、誰からも頼まれてないのに、
このガラパゴスをなんとかしなきゃ
それがおれの仕事なんだ、と
勝手に思い込んだんじゃないかと思うんですよ。
だって、太郎は滅茶苦茶、
真面目な人だったから。

ー あ、真面目な人っていうことは、
 よくわかる。

そうですよね。
几帳面で、異常なほど
正義感の強い人だったと思う。

このことは、以前
民俗学者の赤坂憲雄さんとも
少し話をしたんですが、
赤坂さんは
「でもね、太郎がえらかったのは、
 草野球をやってるやつらを
 バカにしなかったところだ」
とおっしゃっていました。

ーああ、ほんとうに、そうですね。

当時、外国から帰ってきた人たちは
学者にしても芸術家にしても、
みんな日本をバカにした。
「おまえら草野球しかできねぇのかよ」
「俺は違うもんね」と。
太郎はバカにせずに
芸術とは何か、人生とは何か、
大衆に向かって、それを言い続けた。
だけど、けっきょく伝わんなかった。
死ぬまで「残響の強い無理解」の中にいたんです。


太郎さんは、フランスに行ったときに
マルセル・モース
(文化人類学者。岡本太郎さんが
 ソルボンヌ大学留学時に師事)
とのつきあいがありましたよね。
進んだ西洋の文化にあって、
たとえばアフリカに住む人たちを
研究対象として見ることがあったかもしれない。
でも、ちゃんと研究している人は
「ほんとうは同じ」ということに
気づいていくわけです。
おそらく人類学というのは
そういうことだと思います。
そこで、
自分が自分として生まれたということを
否定するわけにはいかない。
パリにいる岡本太郎はそう考えたと思います。

否定するわけにいかないけど
過剰にすばらしいとも言わない。
海外に行くと「日本はすげぇぞ」って、
やたらに言いたがる人だっているけど、
岡本太郎はそうもならなかった。

向こう側で見たものがあって
日本に帰って掘り起こしてみたら、
「なかなか、全部すごいじゃん?」
ということだったのでしょう。

(中略)


太郎は大阪万博で、
まぁ「見かけ上」、大成功したわけですよね。


でも、というか、だからこそ、っていうか
それ以降、太郎の地獄がはじまったんです。
あいかわらず社会は太郎に無理解なんだけど、
表面上成功したら、
戦わなくなっちゃったんですよ。

太郎が画壇的な権威に喧嘩を売っていた頃は、
「岡本太郎が10年後に残ってたら、俺の首やる」
という評論家もいたんです。
寄ってたかって批判して
『太陽の塔』のような見苦しいものは
ダイナマイトで爆破しろ、という声も
あったくらいです。
だけど、『太陽の塔』は国民的存在になり、
万博は大成功した。

それで、敵がいなくなった。
無理解、かつ敵がいない状態。
のれんに腕押し、糠に釘。
(中略)

万博以降は行く場所がなくなっちゃった。

-----------------------------------------------
岡本太郎生誕100年対談

岡本太郎記念館館長 平野暁臣
(文中、敏子というのは岡本敏子さん。暁臣氏は敏子さんの甥御さんだそうです)

インタビュー 糸井重里(ーで始まる部分)

以下のページより抜粋・引用させていただきました。
https://www.1101.com/taro100/2011-12-28.html







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