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2018.10.17 Wednesday

メモ


古神道の勉強をしている中で
全く同じ内容の事でも
紙の本で読むのと
デジタル画面から文字や動画で受け取るのとでは
その「質」が全く異なっていることに気づいた。

うまい言葉が見つからないので便宜上この言葉を使いますが、
「波動」。
紙の本から受け取るもののほうが清涼であり
繊細な波動で受け取ることができる。非常にクリアな状態。
同じ内容のことを言っているのに、
デジタル経由の文章や動画で受け取ると
不思議と非常に荒い波動になっており
受け取る事もどこか質が落ちたものになっている。
文章としては同じ内容なのに。

紙の本を前にしたときと、
デジタルな画面や音声を通した時では
受け取り手の状態が明らかに異なるので、そのせいかもしれない。



10年間ほど待ちに待った本がようやく邦訳されて、
早速読んでみたらやはりその内容に感銘を受けたことがあったのですが、
ちょうどそのタイミングで、
ある知人から『最近お勧めの本があったら教えて』というのでその本を教えました。

後日、その知人が『あの本、アマゾンでみたら評価が低いよね。』と言われて
ひどくがっかりしたことがある。
自分で読んでの感想だったら例え批判的なものであっても
その人の内面の状況と合わない等々理解もできるのですが、
読みもせずに安易に
どこの誰だかわからない・どういう人間かもわからない人々の評価を心中に入れて
信じこんで、その本が存在する意味を貶める、という行為にあきれるばかりでした。

その知人はいま本は主にデジタルでよく読んでいるとのこと。
もう何も言う事はありません。
本についてその人と語ることはないでしょう。
いや、本だけでなく一事が万事と思ってもいいのかもしれません。



波動の違いにはコミュニケーションをとるうえで致命的なこともあり、
荒い波動を持つところへ繊細な波動で言葉を送っても全く通じない。
過去にとらわれ執着を持ちつづけ、
滞りのある状態から発せられる波動に巻き込まれないよう
その存在に関わりを持たないようにして、ただぽかんと聞き流し後は忘れてしまうのが最上です。

荒い波動にどうしても言葉を伝えるためには、
こちらも荒い波動の言葉を投げつけなければ通じない。
波動のレベルが合っていないと通じないものなのだ、とつくづく思う。
低レベルの波動でやり取りしても本当の解決はない対処療法のような感じです。

もしくは相手が繊細な波動を理解できるようになるまで待つしかない。
例え何千年、何万年かかったとしても待つしかないのだな、と思う。



荒い波動にふれるとそれに影響されるので
できるかぎりかかわりを持たないことが大事だと日常思う。

ことだま、という言い方があるが、
言った本人は本意ではなくとも非常に荒いことだまを投げかけられると
こちらも影響を受けて不安定な状態に巻き込まれてしまう。

古神道で、
「意識して犯す罪よりも
無意識で犯す罪のほうが重い」
というけれど、本当にそう思う。

古神道で言う「罪」ということにおいて、
その言葉や行為が悪意のない無意識であるのならば、
それを投げかけられた相手は絶望的だ。
その言葉は気づいていない故に改善もせず、今後長いこと学ばれることもないでしょう。
本当に罪が重いことだと感じます。
分かっていて投げかけた言葉や行為なら、何らかの意思が働いているわけですから
加減もあるし、今後の改善も進展もみこしており、そこでそのまま滞ることはない。

無意識故に重い罪を犯さないためにも勉強が必要なのである、と古神道では伝えており
真理だと私は感じています。


2018.10.11 Thursday

メモ

 
**


人は後ろ向きに未来へ入っていく

      ポール・ヴァレリー


**


2018.08.30 Thursday

勾玉


***

縄文時代の勾玉はこれから集約されていく形への萌芽が見て取れる。

(「目の眼」492号より)

***

私も由来の分からない勾玉をひとつ持っていて、
素材は翡翠。
たぶん雑貨として海外で売られていたものだと思う。



この写真勾玉の形状を見ると、
理解無くたんに形を模倣しただけのもの、という事が見て取れる。
というのも、まあ磨きの雑さは別として、
なんというか、特に縄文〜古墳時代の実際に使われていた勾玉を見ていると、
色々な形状があるにしてもどこか守られている曲がりの要所があるように感じるのだ。
その要所の曲がりは、とても有機的であり、
一つ気づいたのは、
粘土を自然にのばしてできてくる形、
粘土なら余計な力を加えずに自然にできる形だ、ということ。
その要所の曲がりがこの勾玉にはないのです。

勾玉の形は、決して彫って自然にできる形ではない。
彫刻と陶芸を長いことしていればわかることだけれど、
(妙なことに私は大学では彫刻科を出ていて
その後しばらく彫刻・彫塑の仕事と木工の講師をしており、
その後成り行き上で陶芸の仕事に関わることになりました。
その自分で選んだ訳でもない成り行き上始まった陶芸の仕事が
今に続いているわけで、不思議なご縁に結ばれました。)
彫って自然にできてくる形だったらあのような形にはならないと思う。

なにか有機的な柔らかい素材が伸びてできるような形を、
わざわざ彫って作っていたのが勾玉で、
もとは権力や財力とは全く関係がないものとして何か役割を持ち
使われていたように感じられて仕方がない。
(勾玉を収集していた小林秀雄も『勾玉は使うものだよ』と肌身に付けていたそうです。)

勾玉が玉造所で制作されていた時代も後期になると
ガラス素材のものもでてきていて、
もうこの頃になると勾玉の素材にも序列ができて、
ガラス>翡翠>滑石や蛇紋岩などその他の石類
となっているようで、ガラスを最高位に置いているあたり、
当時の素材の貴重さからつけられた序列のように感じて
これまた本来の勾玉の意味や役割からとっくに離れてしまったと感じる。

縄文〜古墳時代くらいまでに作られていた物に比べ、
後世に作られた勾玉は本来の役割を果たさなくなってきている。
つまり権威や利潤に沿う物になり果て、本来の力や意味を失い、
そうして役割を失い、そのうち人の世から引き上げられてしまった。
残ったのは雑貨としての勾玉、とでもいうべきでしょうか。

「勾玉」「曲玉」ということばも後世に付けられた名称で、
そもそもこのものの名は「まがたま」ではないように感じています。
調べてゆくとヒントは沢山あって・・・
今は「ヌナ」(=輝く、という意味)という言葉にピンとくるものを感じています。



こうやって受け止めてきた勾玉についての考察。

以前陶芸のお客さまから『MAJOさんが作る勾玉を見てみたい。』と言われたことがあり、
私はその時、自分の役割ではないから作ることはないだろうと即思ったのだけれど、
いまなら土での勾玉が作れるような気がします。

土で作る勾玉は、焼くことはありません。
縄文時代の土器が沢山でてきているのに、
そして土偶の巫女が勾玉の首飾りをしているモチーフなども縄文人は作っているのに
なぜ勾玉そのものを土でつくらなかったのか?
土なら、石を彫るよりも成型がずっと簡単です。(後世にはガラスでは作っているのに。)

つまりこれは作る際に火にかけてはならないものだったのではないか、と推測しています。
(ちなみにガラスで勾玉を作られた後世にはすでに勾玉の意味と役割を失っていたので
「火」にかけることについてももう関係がなくなっていて
それよりもガラス素材の珍しさ、という利潤と欲に傾いていたと感じます。)

だから私がいま土で勾玉を作るとしたら、
焼かずに、
やわらかめの土でもって自然に成る形状をまもって
(これはつまり宇宙の真理をまもって)作ることになるでしょう。



うつわを持つ巫女の埴輪/古墳時代 群馬県高崎市上野塚廻り古墳群出土 文化庁蔵
(「目の眼」492号より写真お借りしました)



今日のおぼえがきは、
土に関わるものとしての視点から、
そして古神道の視点から、勾玉をみてのメモとなります。




2018.08.12 Sunday

メモ

 
**

人の心で国を治めれば過つ。
ゆえに神の心を体して政治を行うようにと、
大御神の御垂示によって
「み床(ゆか)を同うし、み殿(あらか)を共に」されて来たが、
崇神天皇の御代になって、あまりの恐れ多さに皇女・豊耜入姫命に託されて、
天上将来の神璽・八咫鏡を、倭の笠縫邑に祀らせ給うた。
更に垂仁天皇は、皇女・倭姫命に託されて、諸国を巡り、
ついに神慮によりて「常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する」
伊勢の国の五十鈴川の川上に、宮柱を建て斎き祀ったのが、伊勢神宮なのである。

かつて宮川を越えて、国外へ持ち出す事を許されなかった
「禁河之書」の一つである『倭姫命世紀』には遠く美濃国まで、
宮所を探し歩かれたと誌されている。
<中略>
神まつりは女性が最適である伝統を物語る、大切な神話として『日本書紀』に収載されている。


「奈良古物逍遥 伊勢街道」 岡本彰夫より(目の眼492号)

**


2018.07.09 Monday

海の雫

 
海の雫は 香の露 


2018.07.07 Saturday

メモ

 
エントロピー化が加速して
その先には何があるのかな。


そうならぬための大祓。
気づく人が増えますように、
自然も宇宙も力をかしてくれている。





2018.06.15 Friday

メモ

 

獅子の星座に散る火の雨の 

消えてあとない天のがはら 

打つも果てるもひとつのいのち
 
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

(宮沢賢治「原体剣舞連」より)



2018.05.30 Wednesday

メモ


「宮沢賢治の詩や童話のなかで鳥が変化の予告者の役割を果たすことは多い。
そして、それは宮沢賢治のシャーマン的資質と深く関係しているとわたしは考えている。
鳥はあるシャーマン的資質を持つものに方向性と予兆を知らせる。
天と地の狭間を飛行する鳥は、媒介者であり、メッセンジャーであり、次元越境者でもある。
越境することをおのれの本性とする存在。」

(鎌田東二著・宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読 より)


2018.05.29 Tuesday

メモ

 
「それはあなたも同じです。
すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。
私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。
ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、
人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。
それは、人のさかえをば、人のたくらむように、
しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。
もしそのひかりの中でならば、
人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のただ一抹も、
神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません」



宮沢賢治「めくらぶどうと虹」より



2018.04.16 Monday

天霊地気


ひさびさに、
喜劇駅前食堂さんのサイトにある日本画家・奥村土牛についてのコラムを再読。
読みふけってしまった。
駅前食堂の番頭さんはライターのお仕事をされていて
さすがプロというだけあって、
文章におとぼけ味を持たせつつもぐいぐい引き込まれてしまいます。

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土牛は折りにふれて大観から絵画論・芸術論の洗礼を受けるが、
あるとき、大観からこういわれ深い感銘を受ける。
いわく、「君、絵というものは、山水を描いても、花鳥を描いても、宇宙が描けなかったら、芸術とは言えないよ。
鳥を描くなら鳥の声も聞こえなくてはならぬ。それが宇宙の生気というものではないか」


「私の仕事も、やっと少しわかりかけてきたかと思ったら、
いつか八十路を越してしまった。
かつて横山大観先生に『天霊地気』という書を頂いた。
私は日頃からこれを座右の銘としているが、最近は一層、この深い意味のことを思うのである。

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喜劇駅前食堂コラムより一部転載させていただきました。

ちなみに、駅前食堂さんから徒歩2〜3分くらいのところに
奥村土牛記念美術館があり、私も訪れたことがありますが、
土牛さんのおごりのない誠実なお人柄が伝わってくるような思いでした。
お勧めです。
八千穂にお越しの際には駅前食堂さんと合わせてぜひ巡ってみてください*



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