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2017.04.09 Sunday

舞台「細雪」その2

 
明治座公演の「細雪」のこと、
もう少し書かせてください。

ロングランで再演を繰り返されていたことは
ずいぶん前から知っていたのだけれど、
観に行ったのは今回(もう先月のお話ですが)初めてでした。

普段私が好んで観に行く舞台ではお目にかからない役者さんも
主要人物として出演されていて、
とにかくキャスティングが秀逸!
皆さん役柄そのもので、その役が本当に息づいて今も生きていると感じます。

特筆すべきは水野真紀さん。
昔テレビで少しお見掛けしたくらいで
ほとんどこの方の演技を知らなかったのですが、
こんなにうまいひとだったのか。。。と。
本当に素晴らしい舞台女優になられていたのですね。
次女の幸子の、ひとりの大人の女性として、姉として、妻として、
そして長女の前では妹としての、
ああ、こういう人なんだ、この人はこういう人なんだ、と
幸子の立ち振る舞いに人生を感じ、生き生きとしたものがありました。
舞台での彼女の声の出し方もすごくいいなあと思いました。

長女の鶴子役は賀来千香子さん。
元来おおらかさのある人なのでしょうが、
古い格式ある船場商人の家柄という背負っているものが大きすぎる故に、
固くなになってしまって、それを解く事ができないでいる怖いお姉ちゃん。
大黒柱が折れてはいけない。
だからこその強さと、ある意味での鈍さ。
賀来さんの特徴のある声質が、
この鶴子という性質に非常に合っていると感じました。
声質が持つ個性、結構大事だなと思います。

三女の雪子役は紫吹淳さん。
彼女の舞台は宝塚時代から観ていたのですが、
細部に渡って作りこんだ彼女の役作りを楽しみに今回観劇したのですが
果たして期待はまったくもって裏切られることなく、
大人しいだけでないその深い奥行きを感じる個性を雪子に感じました。
もしかしたら、雪子の本質こそ芸術なのかもしれない。。
末っ子の妙子が、
自らの気持ちに素直に、
才能を開花させるべく芸術の道を選んでゆくのですが、
一見、それとは相反するような気質と思われそうな雪子。
けれど雪子が、妙子の最高の理解者であったように、
この二人の妹の魂はとてもよく似ているように感じます。
妙子はそれが表面に表れて輝いており、
雪子はそれが内面深くで輝いている。
内面に輝きをもつ雪子が、もしかしたらこの四姉妹の中で
もっとも強く、賢い戦士であり、本来の意味で純粋なのかもしれません。
決して多くないセリフでその複雑な内面のすべてを伝えて来た
紫吹淳さんの雪子。
セリフらしいセリフはなくとも、
雪子の思いが、客席の反応で、ちゃんと伝わっているとわかるのです。
非常に個性的で素敵な雪子でした。

そして末っ子の妙子役の壮一帆さん。
私はお名前を聞いたことがあるくらいで、
初めてこの方のお芝居を拝見しました。
妙子の、無邪気さと、はつらつとした気質、
姉たちのように家の格式にも重責にも触れず、
縛られることを厭い、素直に自由を求める心をのびのび演じられていました。
姉たちとは「時代が違う」というのをその存在で感じさせます。
衣装も洋装が多く、妙子が出てくるとぱあっと陽の風が吹く感じ。

衣装と言えば劇中で、
四姉妹の着物を女中たちが虫干しする場面があるのですが、
舞台いっぱいに広げて陽光にさらされた豪華絢爛な数々の着物に、
客席からどよめきが起きていました。
華やかで晴れ晴れしく、
何かこういう、ちゃちでない、ほんものの豪華絢爛さ。
こういうハレのものが観られるのも舞台の醍醐味。
いろいろな面において、本当に期待を裏切らない舞台作品です^-^

細部に於いてまで大満足の観劇でしたが、
惜しむらくは、やはり音楽を使うシーンが生演奏ではないという事。
とくにラストの満開の桜の幻想的な場面は、
生の楽器演奏だったらどんなに良かったか、、と思えます。
非常に美しい場面だっただけにそれが唯一残念です。

歌舞伎などでは、たとえ芝居中心の脚本でも、
音の入る場面では必ずやはり生演奏なので、
なんとか実現できないものかと本当に「細雪」が素晴らしい舞台だったので、
つい欲張りにそんな風に感じてしまいました。

これだけ長く続く舞台にはやはりそれなりの力と
人に訴えるメッセージがあるのだなあと思います。

素晴らしい舞台を観ることができると、
しばらくはその世界へ行こうと思えばいつでも行けるような気になっていられるのが良いなあと思います。

今日は雨ですが、すこし仕事の手を休めて満開の桜、、
散る前に見に行きたいなあと思います。



2017.04.08 Saturday

舞台「細雪」その1

 
舞台演劇を見るのがとても好きで
昔は見たい演目があれば海外も厭わずの時代もありました。

そんな話をしたら、
『MAJOさんて意外とミーハーだよね』といわれたことがあり、
しかし「ミーハー」という言葉に妙な違和感を感じ。。

何故その言葉に私は違和感を感じたのだろうと、
後でよくよく分析してみたところ
おそらくその人と、私とでは、「舞台観劇」というものの捉え方が
それぞれの人生に於いて根本的に異なっているからではないかと思いました。

私の中で、舞台演劇というものの位置づけは
私のものづくりと非常に近いものを感じています。

どこか大きな天のようなバックグラウンドが伝えたい事象とのつながり。
そのつながりを結ぶのが役者であり、ものづくりであるのかな、と。
天のような大きなバックグラウンド
(「この星の自然」という表現でもいいかもしれません)
が伝えたいことを顕す、
その表現に非常に共感を持つからこそ、舞台を観に行きたいと思うのです。

舞台を観ている間、
舞台上と客席の相互に目に見えない力が働き
現実を超えて五感以上の感覚が開く体験をされた方は
結構いるのではないでしょうか。
そして何か深いメッセージを受け取ることがある。
必ずしもすべての舞台からそれを受け取ることがあるとは
限らないのだけれど、
舞台で行うということの根源を思えば、
それが純粋な「神事」に近づいてゆくのがわかる時があるのは確かです。

そういった事を感じ取られる演者の舞台でなければ
少なくとも私はもう観に行かないですし
そういったことを無意識で知っている脚本演出でなければ
本当の舞台は成り立たない、と感じています。

こういった、
私にとって必要不可欠な意味あいに於いて舞台を観ていると、
舞台を観始めた当初は当たり外れが色々とあり、
しかし何十年も観劇を重ねるにあたって、
自分にとって見る価値がありそうか・そうでないかの勘の働きも
少しは私なりに鍛えられてきたと思います。


さて、前書きが長くなってしまいましたが、
この春の初めころに明治座で『細雪』を観劇しました。
上記したようになぜか直感にぴんと来るものがあったからです。

何度も再演を繰り返してきたこの舞台「細雪」は
今回の上演で1500回を越えたそうで、
それだけにそぎ落とされ、
突き詰められた、
世界観が確立たれた素晴らしい舞台作品でした・・・。

いまでも時々思い出すと、
ふわあっとあの細雪の世界が舞い降りて来る感覚があります。

谷崎純一郎の原作は読んだことがないのですが、
この機会に読んでみたくなりました。


演劇のインタビューや記事を書いておられる
藤本真由美さんという方のブログに、
今回の舞台「細雪」のことが書かれていて、
藤本さんの文章とともにまた世界へ引き込まれるものがありますので
ご紹介させてください。

四姉妹それぞれ〜「細雪」徒然その3

その3とありますが、その2の藤本さんのおばさまのお話
一つのノンフィクションの小説のようで大変ひきこまれました。。
こういった深い内容のブログに出会えてうれしい。

私には、上記その2に出てくる愛子さんのような方が身近にいなかったので
この「細雪」の舞台を拝見していて、
自らの体験記憶の中から、昔とても味わい深く楽しんで読んでいた
ある少女漫画を思い出しました。
大和和紀さんの「はいからさんが通る」という作品です。
「細雪」とは時代設定が異なりますが、
時の流れ方、人と人との間合い、衣、家、
何かノスタルジックで心地よいものがあり、
その上で「考えさせるもの」が
物語の中心に滔々と豊かに流れている感覚を覚えます。


「細雪」の4姉妹それぞれの個性が粒だって脈打ち、
今でもまだあの空間で4姉妹が生き続けている気がしています。
舞台最後の場面の満開の桜、
いままさに自分がその季節のただ中にいて、
舞台なのか現実なのか、
そのどちらでもなく・どちらでもよい、と思える心地よさ。
ほんとうに良いと思える舞台をみた幸福感に包まれています。



2017.03.03 Friday

愛ほしき‘日本の歌’

  
先月2月の末に神戸のアトリエシードさんへ、白猫の絵皿シリーズと
サカナとお城の絵付けのベルカップ(今回は1点のみ)を納品致しました。

いま現在は店頭販売のみですが、
もうまもなくアトリエシードさんのwebショップにて
今回納品分の作品たちもお取り扱いいただけるそうですので
神戸より遠方の方はどうぞしばらくお待ちくださいませね。




ひとつ納期を終えて、
このちょうどよいタイミングで徳島から友人が来ているというので、
私も久々に東京まで小旅行気分で行ってまいりました。

友人の弟さんは尺八の奏者でして、
昨日は豊洲のシビックセンターホールで
和楽器のオーケストラ日本音楽集団の定期演奏会があり
堪能させてもらいました。(ここのホール、音響がいいですね!)



『愛ほしき‘日本の歌’』と題された今回の演奏会は
友人の弟さん・原郷隆氏の構成によるものだそうで、
いつもの現代的な音とは趣向を変えた、
日本の古い歌や、わらべ歌のラプソディーで構成されており、
どんな年代の方にも、そして邦楽初心者にも大変親しみやすい内容でした。

ですが、親しみやすいといっても
非常に質の高い邦楽集団による内容ですから、
耳と心の満足度がとても高いものでした。
邦楽器に合わせた編曲が素晴らしく、
歌の歌詞はもとより、楽器の音でその情景が浮かんでくるようでした。
「おぼろ月夜」はおぼろ月夜のように、
「赤とんぼ」はかつての日本の山野が、
筝の共演はよせては返す波のように、
音によって描かれているのを感じました。

自然の素材から生まれた楽器の素直なそのままの響きは
やはり同じように自然から生まれた人の体に
すうっととけこんで一緒に振動しているのを感じます。
そしてそれがとても心地よい。
さいきん少し疲れがたまっていたようで、
それがほどけて溶けてなくなってゆくのがよくわかりました。
昨晩はおかげでぐっすり眠れました(^-^)

音楽療法なんていうのもあるようですが、
これもきっと録音したものではなく
生の楽器の演奏でしたら効果なおさらだろうな、と思います。





私が舞台の何が好きかと言ってまず筆頭に挙げるのは
生演奏である、ということです。

オペラやミュージカルや歌舞伎が好きなのも、
生の楽器演奏があってこそ。
最近特にそう感じます。

だからこそ劇場に足を運びたいという思いに駆られるのです。

何年か前にミュージカル「レ・ミゼラブル」が映画化し、
舞台の同作品が大好きでそれまで国内外の公演に何度も観に行っていた私は
期待して映画館に見に行ったのです。
しかし、映画が始まってその第一音を聞いた瞬間、
がっかりしてしまいました。
音があまりにひどい。
有楽町の綺麗な映画館でみましたので
映画館としては音響は悪くない方のはずだったのですが、
当たり前のように今まで舞台の生演奏の音を待っていた耳は、
そのひどい音を大きな音で映画館館内に流し続けられることを
苦痛としか感じなかったのでした。

昔、ミュージカル好きが高じて
ロンドンのウエストエンドに舞台を見に行ったとき、
(アンドリュー・ロイド・ウェーバーの全盛期でした)
小劇場も観たいと観に行ったのが「in to the woods」という
ソンドハイムのミュージカル。
狭くぎゅうぎゅうづめの客席に、小さな舞台。
その小さな舞台の空間を縦横無尽に利用して、
森や小川が配置され、
そしてさらに驚くほど立体的に格好良く空間を利用して
生のバンドが入れられていたのでした。
ミュージカルは音の力。
このとき観た「in to the woods」は
素晴らしい忘れられない公演のひとつです。
『やはり音は生演奏!』というところからも
一流の演劇都市の底力を感じました。





昨日徳島の友人からういろうをお土産にいただきました。
「あしたはひな祭りだから」と。



徳島ではひな祭りにういろうを頂く習慣があるのだそうで、
その地方の伝統を感じながら
濃い目にだした煎茶とともにおいしく頂いています^-^




2017.02.27 Monday

玉三郎さんの白拍子

 
少し前の観劇おはなし。

時は昨年末の12月。
大変忙しいさなかだったのですが、
玉三郎さんの出ている公演をどうしても観たくて
歌舞伎座へ行きました。

生で見られるのはこれが最後かもしれない。

このごろの玉三郎さんの舞台出演の情報を知るたびに
なんとなくそう思ってしまいます。
そう思うのには、自他ともに様々な要因がある故なのですが。

「二人椀久」の松の精は玉三郎さんの面目躍如。
そして勘九郎さん、以前と何か変わった?
最初、勘九郎さんとわからなかったくらい。
正直、勘九郎さんを初めて良いと思った。。幻想的な舞。
異界へと引き込まれます。

それから「京鹿子娘五人道成寺」。
このたびの娘道成寺は5人の白拍子。
若い白拍子にはおぼつかないながらにも愛らしさがあり、
中堅の白拍子にはやはり目を引く何か清々しいものを感じ、
そして玉三郎さんの白拍子には何やら凄みを感じ。。

このところ綺麗どころを演じるのがめっきり少なくなった玉三郎さん。
ひさびさの美人役とあって楽しみに(そしてこれが最後かもしれない)と
思いながら観に行ったのですが、
ただ美しいだけではなく、
『あれ?おかしいな。』と思わされたのは、予想外の趣き。

人ではない、何か。
あれ?娘?人?なんかおかしい。。
観ていて自然にそんな風に思う。
そんな風に、人が直感で感じる違和感を呼び起こす玉三郎さんの白拍子。

次々に娘の役を次世代に引き渡して、
藤娘も鷺娘ももう演じないと決めた玉三郎さんが、
この娘道成寺は、いまも見せてくれる、
その意味がはっきりと分かりました。

どこまでも舞台に於いて自分を客観的に見ている厳しい人。

その人が演じるのだから、
ただことではなかった。

昔の玉三郎さんとも違う、
いまだからこその、妖艶で美しい、
しかしそれはすでにこの世のものではないということを、
人の本能を刺激して伝えて来る白拍子を
ありありと見せてくれたのでした。


どこまでも孤独で
どこまでも美しい人。


舞台でなければ伝わってこない
独特の感慨に包まれながらの帰途。
無理を押して観に来てよかった。

テレビもラジオも映画もネットもなくても困らないけれど、
舞台だけはどうしても私には必要だなあと思うのです。
稀な舞台からは、
生命の核にも届く大切な何かを受け取ることができるので。

あくまで稀な舞台からのみですが。






2017.01.12 Thursday

『エリザベート』20周年スペシャル・ガラ・コンサート 

 
宝塚での『エリザベート』初演より20周年の記念ガラ・コンサート行ってきました。
待望の姿月あさとさんのトート(死)の役の回。

20年前の初演を観てこの作品の素晴らしさに感激し、
そしてその後1998年に、
姿月あさとさんのトート役、花總まりさんのエリザベート役の再演を観て
初めてこの物語の深さにさらに捕われたように思います。

なんといってもこの作品の愁眉は音楽。
シルヴェスター・リーヴァイの作る音の並びが、
この世のものではない何かを体現し、
また体現する為に必要な肉体があり、、
そのまさに『必要な肉体』が
花總まりさんであり姿月あさとさんであったように感じた舞台でした。
人が作品を演じるのではなく、
作品が選ぶ人によって見えてくるものがあるような作品。
このふたりのキャストによる『エリザベート』の例えようのない魅力に、
1998年の再演では当日券に並んで何度も何度も観に行ったことが思い出されます。

1998年上演当時のメンバーは、
まさにこの作品を上演するために集められたようなメンバーといわれていて、
皇帝フランツ・ヨーゼフ役の和央ようかさんは
『フランツの深い哀しみをあの美しいメロディーがすべて顕しているから、
余計な事をせずただ淡々と歌うだけで良いのです。』と当時のインタビューで
答えていましたが(その”ただ歌う”事が大変に難しいとも言われていましたが)
まさにこの音の並びの持つ目に見えない力を熟知した上での言葉であったと、
実際の舞台を観ても感じたのでした。

『エリザベート』の物語の詳細や、
私がこの作品の足取りを追ったことについては
少し前のおぼえがきに書きましたので、
先にお読み頂くと本日のおぼえがきがスムーズかもしれません。
(ほんじつかなり熱く語ってしまいそうで、、すみません。笑)

今回観たガラ・コンサートは、
まさに1998年に観て震撼した姿月あさとさんのトート役の回でした。
あれから19年!?ずいぶんと月日が流れたものです。。

今回のエリザベート役は大鳥れいさんでした。
少女時代の演技にはあまり特別な光を感じられなかったのですが、
トート(死)に追いつめられれば追いつめられるほどに美しくなって行くのが
印象的なエリザベートでした。

皇帝フランツ・ヨーゼフ役は樹里咲穂さん。
これはもう特筆すべきでしょう。すばらしいフランツ・ヨーセフでした。
すばらしい。。

暗殺者ルイジ・ルキーニ役は1998年と同じキャストの湖月わたるさん。
あの時と良い意味で変わりなく、トート(死)への敬愛が
ひしひしと伝わってくるルキーニ。
ルキーニの、トート(死)への愛、
これこそこの物語を動かしている総てでしょう。。

年月を経てそれぞれの出演者がそれぞれの人生を生きてきた分だけ
その深みがこの作品に反映されているのをひしひしと感じました。
ほんとうに観に行って良かった!



今回この物語を改めて観て、私の内でも理解が深まり
わかったことがいくつもありました。

この物語は冒頭で語られるように、
ルイジ・ルキーニが呼び覚ました
ハプスブルク家のさまよえる亡霊たちが体現する物語。
つまり、すべてがこの世のものではない、という前提です。

そして劇場をこの世ではない黄泉の国へと圧倒的な力で
有無を言わさず引きずり込んで行くトートの歌声の力。
まさに黄泉の帝王でした。。
姿月あさとさんのトートの闇はよりいっそう深く凄みを増し、
そして純化していました。

暗闇の底で光を見ている。
姿月さんの肉体に宿った黄泉のトートの歌声には、
その切望と憧れを痛いほど感じます。
その光がエリザベートなのです。

エリザベートの存在は半幽半顕で、
彼女の魂は顕界と幽界を行きつ戻りつを繰り返しています。
(大鳥れいさんはお芝居のとても上手い方ですし
すきな役者さんなのですが、この役に於いては、
彼女の持っている気質に半幽半顕という体現が感じられなかったのが
少し気になりました。
これがないとトートに惹かれるという説得力が薄らぐように感じます。
もしかしたらこれは演技で出来る事ではないのかもしれませんが。。)

トートがエリザベートの息子ルドルフに最初に近づいたきっかけは、
ルドルフが、自分を本当に見てくれない母への”羨望と寂しさ”という
トートと同じ魂の片鱗を感じたから。
そしてトートが、
ルドルフを死の駒として利用しようとしたのは、
ルドルフが、単に自分の心の慰めの為・自分の益の為に猫を殺したから。
生きる事と同じ位『死』というものの尊さを理解していなかったから。

この宝塚版のエリザベートのラストは、
東宝版、そして本家ウィーン版と比べても非常に完成度が高く、
何より浄化感があることを上手く説明できないでいたのですが、
今回のガラ・コンサートを観て、はっきりわかりました。

最後にエリザベートの愛を手に入れる(人が死を愛し受け入れる)事で、
トート(死)はエリザベートとともに別のステージへ昇る事が出来たのだと。
ラストの白い衣装の場面は、もう黄泉の世界ではなく、
ふたりは別のステージにいて、
これは大変神道的な見解になるのだけれど、
人と死が互いに真の愛を得た事で、
霊格があがりステージが変わった事を示唆しているのだ、と一気に理解しました。

エリザベートの心臓を射した暗殺者ルキーニは、
トートと同じステージへ昇る事は出来なかったけれど、
彼は敬愛するトート閣下へ最高の贈り物が出来たということで、
たとえ人から狂気と言われても彼自身は満たされているのだろうと思う。。
けれど、冒頭の場面にでてくるように、彼の魂はずっとさまよい続けている。
(ジーザスを磔刑へ導いたユダの、魂のように。。
ユダもルキーニも敬愛する人のために行動し、そして自死している。
彼らは同じ界にいて、永遠にさまよっているように感じてしまいます。。)

何か大いなる力にまかされて世に光を与える時、
光にはどうしても影が必要だ。
ユダやルキーニのように影を引き受ける役割の者が
どうしても必要になってくるものなのでしょうか。。

物語そのものに力が在り、まるで生き物の様に自然に流れて行ったとき
作者すら意図しないところで、なにもかものつじつまが合うようにして完成する。
物を作っていてそういう瞬間があるのは私にもわかります。
宝塚版のエリザベートは、『愛』という明確なテーマに沿って
自然に流れて生まれた物語なのではないでしょうか。
実在したエリザベート皇后が語りたかった事が
もしかしたらこの舞台で体現されたのかもしれません。
そんな風に感じます。
おそらくこの物語を潤色した小池修一郎氏は
そこまで意図して宝塚版を作っていないように思います。
(でなければ、現在の東宝版『エリザベート』のラストをあんな風にはしないでしょう。
東宝版のラストの在り方では、エリザベートもトートも何も変わっていない。
ステージが変わっていないので、閉塞感があり滞りを感じます。)

なにか神がかったものを、この宝塚版の舞台には感じます。

姿月あさとさんの歌声は劇場を幽界のきわまで誘い、
そしてラストで黄泉の国から別のステージへと変わった時、
この世のさまようものたちをも、その声の力で浄化したように思えました。。
頭でなくダイレクトに心に届く声。
この作品でこそ、絶大に活かされる声だと思います。
今回ほんとうにひさしぶりに姿月さんの声を聞いて
じぶんの頭の中にいかに日常のゴミがいっぱい溜まっているかが分かり、
そして心でダイレクトに受けた浄化は、決して失われる事はないでしょう。

大鳥れいさんのエリザベート役も美しく、
また大鳥さんの解釈が伝わってきてとても素敵だったのですが、
目に見えない世界・幽界の場を変え、別の界へ移る力をもっていたのが
エリザベートの側だったとすれば、
やはりそれを体現できる肉体を持つ、という意味では
いつかもう一度、花總まりさんのエリザベート役で、
それに対しての姿月あさとさんのトート役の『エリザベート』を観たいです。
この作品の音の並びが持つ力をふたりの循環するエネルギーが最大限に増幅し、
圧倒的な浄化感にひきこまれる、あの舞台を、
もういちど全身で感じたいとどうしても思ってしまいます。

(そもそも演技とか音楽とか舞いとかはそういう物だと思うのですが、
肉体を通して異界へ通じる能力に特化した舞台人が時々宝塚に顕れるのは
やはり女性ばかりの環境で、さらに舞台に特化した環境だから
というものがあるのでしょうか。。いろいろな意味で奇跡的です。)

書きたい事が沢山在り、けれどそれがあまりに観念的・感覚的で
言語化してまとめる事が難しく思います。
これからまたじわじわと感じ得て気づかされる事もありそうです。
本当に稀な舞台を今回も観る(体感する)ことができました。
この作品に描かれていることは苦しいのですが。。幸せでもあり複雑です。


静かにいつも生の傍らに寄り添い、
そして明らかに姿をあらわすときは絶対的な存在である、死。
顕界と幽界の際で、光に眼差しを投げかけながら
圧倒的かつ純粋な漆黒の闇を体現させた
姿月さんのトートの歌声に、存在に、いまも心奪われています。







2016.11.20 Sunday

魂になる

  
舞台演劇、とくにミュージカル、そしてオペラ、歌舞伎などが大好きです。
生演奏の音楽が、音があるのはいいですね。
なかなか最近忙しくて好きな舞台も観に行けていないのですが。。
(引っ越して東京が遠くなったというのも在りますが)

最近自分の内を検証してみてわかったのですが、
私が舞台の何が好きかと言うと、
『憑依体質の役者さんが純化して、演じている人物の魂になる』
というところではないかという結論になりました。

例えば近年の演目で特筆すべき作品としてはミュージカル『エリザベート』。
花總まりという役者さんがあまりにエリザベートの魂そのもので
近来まれに見る感動を得ました。。
そのとき観た舞台を思い出すと
繊細な振動のような感動が体中に蘇るようです。

ミュージカル『エリザベート』は、1992年にウィーンで初演され、
その後日本では1996年に宝塚歌劇団で初演されました。

私は1996年の公演を運良く観る事が出来、
じつは宝塚を生で観るのもこの時が初めての事だったのですが、
非常に素晴らしい作品ですっかり嵌まってしまいました。
そのときのエリザベート役が花總まりさんでした。

1996年の末にウィーンで主演をしていた
マヤ・ハクフォートさんが降板されるという事を知り、
これはもう一生みられなくなってしまう、と
1997年年の明けにウィーンへ飛びました。
(じつはその後続演することになって降板されなかったのですが。。)

現地でも入手困難だったチケットを、(いまのようにネットもない時代だったので)
かたことの英語でチケットボックスにて、なんとか2公演ぶん手に入れた時は
ほんとうに感激でした。

このときのウィーンで上演していたエリザベートはトリプルキャストで、
私が観た1公演目は、お目当てのマヤ・ハクフォートさん。
2公演目に観たのはトリプルキャストのなかで
最も若手の女優さんでした。(お名前失念)

マヤ・ハクフォートさんのエリザベートは大変気性が荒く激しいエリザベートで
(姑ゾフィーと、どちらがどっちかわらないくらいに強くどっしり感が在る)
あまりにがんがんと強く主張するので、
現地ではそこが評価されているところのようでしたが、
私の中のイメージと全く異なり
(やはり私のなかには当時宝塚でタイトルロールに抜擢されて
一杯一杯で演じていた花總まりさんのイメージが
そのまま危うく必死に活きるエリザベートの魂に重なっていたのでしょう)
ウィーンまで来たけれど、宝塚の方が作品としてよかった。。
と思ってしまいました。

そういう意味ではウィーンでの2公演目に観た、
トリプルキャストのなかで最も若手の女優さんの演じるエリザベートには、
王宮の重責に潰されそうになりながらも
ほっぺたを真っ赤にして懸命に主張する姿に心揺さぶられるものがありました。
『厭よ、逃げないわ。諦めるには早い。生きてさえ居れば自由になれるわ・・・!』

さらに宝塚の方が良いと思ったのは、役者のみならず、演出もです。
ウィーンの演出はかなり現代的というのでしょうか、
舞台装置を駆使して、テジタル映像を使い、飛行機の滑走路がでてきたり・・
と、スペクタクルな感じでしたが、
宝塚の演出は、19世紀末のウィーンのイメージを壊さないように
ロマンティックに表現していて、それが物語の進行を、ひいては核の部分を、
落ち着いて素直に観せる事に成功していました。
(19世紀末ヨーロッパの宮廷の舞台的表現といえば、
宝塚お得意の分野なのでしょうし、さすが、といった感じです。

推察すれば、ウィーンでは国立劇場をはじめとして数々のオペラ上演があり、
19世紀末ヨーロッパの宮廷の舞台的表現など伝統的に存在して居り、
そういう環境からミュージカル『エリザベート』としてはあえて
あのような現代的な演出を。。となったのかもしれません。)


それにしてもウィーン側の制作者の、
ものづくり人としての太っ腹にも感服します。
ともすれば『演出・役者等々、元の作品イメージを変えるな』という条件で
日本に入ってくる海外ミュージカルは多いけれど、
ここまで自由に変更を許してくれたのですから。。
(しかも演出が変わった宝塚の為に、その場面に必要とされる楽曲を、
オリジナルの作曲者シルヴェスター・リーヴァイ氏が作曲・提供しているという。。
宝塚版ではその曲が今ではもうこの作品のテーマ曲のようになっていますが、
当然ウィーンではその場面はないので歌われていません。)
その太っ腹あってこそ、
宝塚版は作品として素晴らしいものになっていると言っても良いでしょう。
やっぱり抱え込まずに『手放す』ってことは可能性を広げるんですね^^


さて、
花總まりさんは1998年にも再演でエリザベートを演じています。
この再演でさらに演技が深まり・・というより
憑依度が高まり(こんな言い方あるのでしょうか?)
エリザベートそのものにしか見えない公演でありました。。

おそまきながら、このエリザベートというのがどのような物語かというと、
実在の19世紀末の美貌の王妃エリザベート皇后の半生を描いたもので、
郊外に住む貴族の娘エリザベートに、
当時皇太子だったフランツ・ヨーゼフが一目惚れして
結婚を申し込むところから悲劇がはじまります。
当時の王侯貴族間には珍しく、恋愛結婚だった二人の前には
国を治めるという重責がのしかかり、
幼少時代自然に触れながらのびのびと暮らしていたエリザベートの魂は
王宮に馴染めず、孤独な内なる世界へと沈んで行きます。

劇中、黄泉の帝王(=死)としてエリザベートを死へと誘う『トート』という
この世のものではない存在が要として登場します。
トートは、エリザベートの内なる存在なのかもしれませんし、
彼女と同じ『界』に住む、惹かれ合うものとして描かれています。

この世では『死』はどちらかというと
常識ではネガティブなものとしてとらえられていますので、
エリザベートは死に惹かれながらも、死を否定して生きて行くんですね。
彼女の天秤のもう一端『王宮』を否定するのと同じように。
彼女にとって『否定』が、彼女の内の天秤に釣り合いを保たせています。
『否定すること』が『生きること』になっています。
かなり苦しい人生です。

この物語のラストは、
ウィーンの公演では混沌とした人の業と言いますか
混沌とした人間の生と死を感じるのですが、、
宝塚の公演には『浄化感』しかありません。
『受け入れる』という選択をようやくした瞬間に訪れるやすらぎとでもいいますか。
彼女が受け入れるべきものは『死』だった、というところに
なんとも切ないものがありますが。。
まあエリザベートはその界の方だったのでしょうね。
だから還るべき場所へ還ったのでしょうか。

不思議な現象なのですが、
大概こういったネガティブ要素の多い物語からつくられる場の空気は
やはりそれなりにあまり気持ちの良いものではないのですが
(実際ウィーンの公演では劇場内に禍々しいと言って良いような
雑然・混沌とした空気がありました。
まあ、それが制作者が狙うところだったのかもしれませんが)
しかし、花總まりさん演じるエリザベートには、
ひんやりとした冷たさと同時に何故か純化した空気を感じる。
エリザベートが現実に心を閉ざし深く孤独に陥れば陥るほど、
純化してゆく。。これは言葉にはできない感覚でとても不思議です。。
実際のエリザベートご自身がそうだったのではないか、と思わされるほどの
説得力の演技、いや、もはや憑依のように感じます。

『劇場で演じていると何か(精霊のようなもの)が降りてくる瞬間がある。』
と言った役者さんが居られましたが、
花總まりさんの演じるエリザベートの舞台には
常にある純化した魂が降りて来ているように感じました。

そして満を持して2015年。
宝塚を退団し、帝国劇場での本公演で
花總まりさんがエリザベート役に配役されました。

ながらくのブランクがあるとは思えないほど、
花總まりさんはエリザペートそのままの魂でした。
ますます瑞々しく、ますます年老いて。。
ますます純度が高まっていて、
もはや肉体を離れ、
透き通ってしまうくらいの『魂』そのものを観た思いでした。
亡きエリザベートのさまよう魂が彼女の魂をみつけ、宿り、
舞台の上で純化され、そして鎮魂が訪れる。。祈りのようなものを感じます。

舞台は数々みてきましたが、
今まで観て来た舞台の私のなかでの
数少ないトップクラスに入る舞台でした。。
舞台とは元来こういう場なのだ、ということを根源を教えられたような気もしました。
なにかに捧げられたもの・・・とでもいうのでしょうか。
この舞台、一生忘れません。
(ただラストの演出が。。。良い悪いという意味ではないのですが、
う〜むという感じでした。ウィーン版とも宝塚版とも異なる、
よりいっそうエリサベートのピュアな孤独が際立つようなラストでした。。)

舞台は生もの。
同じ時代に生きてこういう舞台に出会える事は本当に稀で幸せな事です。

計算し、構築し、感情を爆発させ、あるいは押さえ、舞台はいろいろありますし、
いろいろな楽しみ方があると思います。
憑依という言葉を使いましたが、
舞台人には多少なりともそういう素質があるのだろうとも思います。
ただ花總まりさんのエリザベートはそういった言葉や説明をゆうに超えて
魂にとどくこの界ではないものを体現している。
あれは演技ではない、エリザベートそのものだ、と
彼女の舞台を観た多くのひとが言っているように。


そこに届く為に、積み重ね・続けるべき努力は
現実的に在り、必要なことだと思います。
ただ、沢山積み重ね、努力したからと言って必ずしもそこに届くとは限らない。
上手に難曲が歌えたからといってそこに届くとも限らない。
その『おとずれ』がいつどうやって来るのかは誰にも分かりません。
そこが逆に舞台の魅力なのかもしれません。

作曲家シルヴェスター・リーヴァイ氏のつくる音の並びにも
そういう力が在るのだと感じますし、
花總まりさんの持つ、おそらく巫女的な体質が
この妙なる音楽を内包する作品『エリザベート』に奇跡的に出会ったのだ
と思えて来ます。
(いま懸命に言葉でお伝えしようとしていますが、
どんな言葉もあの純化した魂の前には陳腐ですね。。)

少し前のおぼえがきに書きました『天心』という言葉。
それを彼女は、花總まりさんはきっと本質に持っているのだと思います。

東京では来年、20周年記念のガラ・コンサートがあり
演出など変化が見られるとの話も知り、楽しみにしているところです。


いつか『エリザベート』のことを書きたいと思っていたので、
先日友人から『このごろはあまり舞台のこと書かないね。』と言われた事もあって
今日はながながと書かせてもらってしまいました*^^*



2016.02.07 Sunday

趣味は観劇

  
観に行くお芝居を選ぶ時、
主に演出と役者で私は選ぶ事が多い。
まずは好きな演出家の作品に好きな役者がでていたらチェック。
よほど嫌いな脚本(物語)でなければ劇場へ脚を運ぶ率も高くなる。
ほんとうにこれぞ、と思ったものを劇場へ観に行く醍醐味。

逆に苦手な脚本はと言えば、
有名どころではシェイクスピア。
しかし、ものすごく良い演出と役者で、
この苦手だったはずの脚本のカラーが
がらりとひっくり返されるのもシェイクスピア。
だからこそ、このかたの脚本が演じ続けられているのかもしれないなぁとも思う。

『歌舞伎や大衆演劇と同様、当時、観客をひきつけたのは
役者の存在であり、戯曲の複雑さではなかった。』
(2006年上演「ハゲレット」リーフレット 河合祥一郎氏記載)

そしてどなたの言葉か忘れましたが
『映画は監督のもの。舞台は役者のもの。』。

そう、いちど幕が開いたら監督は中心から消え、
舞台は文字通り役者たち独壇場の世界。
魂が動き、最初から最後までひとすじの舞台人生を生き抜くのは
生々しい役者の魂と肉体そのもの。

三谷幸喜氏曰く
『面白い舞台は、面白い映画の10倍面白いが
つまらない舞台は、つまらない映画の10倍つまらない。』
というのも、舞台が生ものである故の危うさから来ていると思う。
同じ舞台ですら上演日によってもう昨日とは違うものになっている。

そして舞台の上にあらわれたものはあらわれたと同時に流れ消え去る。
かくして残るは、ひとの記憶と魂の中に。
それから、
単に記録として残るもの、つまり例えば戯曲を書いたシェイクスピアの名ばかり。
いま観られる舞台は今しか観られない。

古代ギリシャ時代から舞台の形式が変わらないのは
すでに完成されている表現方法だから。
非常に原始的な表現形態だと思います。舞台は。
でもそれでなくてはならない。どうしても。
なぜなら、
舞台上に人智を越えた何ものかが宿るためには、
ひとの魂と肉体という活きた捧げものが必要だから。

舞台は不思議です。
役者から遠い席で観劇したはずなのに、
強く感動した場面は記憶の中でアップになって残っていたりする。

いまこの時代に生きて、
この舞台を観られて心底良かったなぁという作品が
私のいままでの観劇人生の中にも幾度かありました。
そういった魂をゆさぶる舞台が10年に1度でもあれば満たされる。
だから
またこれぞという期待を込めて劇場へ脚を運ぶ。



2014.11.21 Friday

「モーツァルト!」

 
昨日のさむい一日と打って変わって今日はぽかぽか陽気でした。

昨夕はあの雨の中、日比谷の帝国劇場へ
ウィーン発ミュージカル「モーツァルト!」を観に行きました。


ミュージカル好きの私なのですが、このメジャーな作品は今回が初観劇。
ウィーンの「エリザベート」と同じスタッフによる作品と言うこの舞台ですが、
私はウィーンで観た「エリザベート」の演出がどうも好きではなくて、
この「モーツァルト!」の観劇をずっと避けて居りました。

今回みてみようかな、、という気持ちになったのは、
今年同劇場でみた「二都物語」で素晴らしい芝居をみせてくれた井上芳雄の
デビュー間もない頃から現在までのライフワーク的作品が
この「モーツァルト!」であること。
さらに宝塚版の「エリザベート」でかつて何か神がかった演技を見せていた
花總まりがこの舞台にモーツァルトの姉役で初登板とのこと。
そしてモーツァルトの父親役は市村正親であるということ。

でもやっぱり何より「二都物語」の井上芳雄の演技があまりに良かったことが
今回私の足を劇場へ向かわせました。
やっぱり一度はみてみようかな、、と。



そして観劇後の感想は、「ピンと来なかった。」でした。
役者陣には過不足なし。
やっぱり脚本と演出が好きじゃないなあと思うのでした。
休憩含めて約3時間の上演時間、途中ちょっと飽きて来てしまった。

「二都物語」であれだけ深い心のゆらぎを見せた井上芳雄が
この「モーツァルト!」では、
一貫したモーツァルトの人生を集中して生きられていない感じがしました。
それもそうだろうと思います。
モーツァルトに限らず表面的な立場と気持ちしか描かれていない脚本ですから、、。
ポンパドール夫人みたいなモーツァルトを擁護する天使のような存在や、
幼少のままの天才モーツァルトが、シンボリックに舞台上に表れますが、
ちょっと活かしきれていないと言うか、中途半端な印象を受けました。
そもそもが、
モーツァルトがどういう人物なのか、どういう気持ちなのか、ということが
カタログ的(表面的)にしか描かれて居らず、観ている側は感情移入しづらい。

カタログ的、という言葉を使うのならば、
この物語全般に言えそうです。

場面場面がぶつ切りで、
登場人物も多く、
ここまで風呂敷広げてどうするんだろう?と観ている途中で思ったのですが、
結局何も掘り下げることなくカタログ的な見せ方に終始して幕が下りました。

う〜ん。
何が描きたかったのかなあ。
モーツァルトをはっちゃけた若者として描き、
天才の苦悩を描きたかったのだとしたら、
あまりにも表現方法が浅すぎる。
『自分の影からのがれられない』
『ありのままの自分を愛してほしい』
台詞や歌だけでは心にはあまり伝わってこない。。
映画『アマデウス』の足元にも及ばない、、、と思ってしまいます。

う〜ん。
これだけのそうそうたる役者陣を揃えてしても、
脚本演出によっては役者が出来ることに限界があることを痛感しました。
残念だなあ。。。

ウィーンでは
『モーツァルトといったら、もうこういう人物でしょう、決まってるでしょう。』
という暗黙の決まりきった何かがあるのでしょうか。
その土台があればこそ、このミュージカルが理解できるのでしょうか。。。
この作品はそういった舞台だったのでしょうか。

う〜ん。
あんまり楽しめなくて残念でした。




おまけ。

東宝版のエリザベートの再演が来年決まった様ですね。
東宝版の演出も、初演でみたときはいまいち、、、という感想を持ったのですが、
もし来年の再演で花總まりがエリザベートを演じるのなら観てみたいなあと思います。
宝塚版の初演&宙組公演と彼女の演じるエリザベートをみた限り、
一世一代のはまり役だと思うので。。
(東宝版初演時より演出が良くなってることを願いつつ)





2014.10.30 Thursday

エリザベート

 
ちょっと前の話になりますが、
ひさびさの東京宝塚劇場で観てきました「エリザベート」。
今回の再演はおもしろかった!!
入手困難なチケットをとってくれた友人に感謝です。

「エリザベート」は、
ウィーンに実在した美貌の王妃エリザベートの一生を描いたミュージカルです。
私が初めて観た宝塚の演目がこの「エリザベート」の初演でした。
調べてみたら、1996年初演の様です。

これを観るまで正直、宝塚をなめていました。。
というか良く知らなかった。
イメージ先行による偏見といいますか。。はずかしいことです。
恐らくそもそも舞台好きならこの劇団の底力を理解し楽しめるのではないでしょうか。
劇団員は十代の頃からレビューを中心としたエンターティナーとして
よく訓練されており、このような劇団が日本に存在すること自体
奇跡に近い事かもしれないと思うのです。
宝塚は今年で創立100年を迎えるそうですが、よくぞ!という感じです。


ともかく、私はこの初演の「エリザベート」にやられました。
作品そのものがエンターテイメントとして非常に優れている。
まず作品にほれこみました。

当時ネットなどによる情報網もほとんどなく、
演劇雑誌をしらべあげて、この作品は、
ウィーンで上演中のオリジナルミュージカルだという事が分かりました、
それを宝塚では宝塚にふさわしい演出に変えて上演していたのでした。

そうなりますと、ウィーンのオリジナルが気になります。
早速翌年1997年の年明けにウィーンへ飛びました。
当時オリジナルキャストでエリザベート役を演じていたマヤさんが
降板されるとの事で、「エリザベート」の上演自体、これがもう最後だと
言われていました。
映画と違って舞台は生ものですから、これを逃すと
もう一生「エリザベート」のオリジナル公演は観られなくなります。
そういう訳でウィーンへ飛び立った演劇馬鹿がひとり居た訳なのでした。。
(でも結局「エリザベート」はウィーンでも再演を繰り返しており、
マヤさんも降板することなく(トリプルキャストだったりしますが)
現在に至っている様です。)

1997年、ウィーンで念願かなってオリジナルキャストでの「エリザベート」、
結局3回も観ることができました。
チケットは入手困難で、現地ウィーンのボックスオフィスでは、
当日券もなく翌日も翌々日も完売との事でしたが、
この為に1週間の猶予を持ってウィーンに滞在していたおかげで、
なんとか私の帰国間際ぎりぎりの公演を3回、観る事が出来たのでした。

そうして観たウィーンのオリジナル公演の「エリザベート」でしたが、
私の感想は、この「エリザベート」は宝塚版の方が数段優れている、というものでした。

宝塚版はなにより演出が良い。
作品の内容に合った無理のない自然な演出がなされていたのは、
ウィーンのオリジナル版ではなく、宝塚版の方だと思いました。
(そしてまた、宝塚に演出の大胆な変更をまかせたウィーン側の演出家やスタッフの
太っ腹ぶりもすてきだなあ、と思ったのでした。)
後にウィーンでの公演そのまま来日公演が、大阪で実現して居りますので
ご覧になった方はご存知かと思いますが、ウィーン版は演出が気張りすぎてるんです。
観ていてその気張りが疲れてしまう。物語そのものに集中して入り込めない。
それから主演のマヤさんのキャラクターが
あまりに強すぎるのも気になりました。。(これは好みかもしれませんが)

そんな訳で前置きが長くなりましたが、
(ちなみに東宝版というのも観ていますが、
長くなるのでその感想などはここでは割愛させてもらいます)
宝塚版の「エリザベート」が改めて好きな私なのですが、
やはり初演が好き。それからのちの再演された宙組での上演も好きでした。
どちらの公演でも、エリザベート役は花總まりさんが演じていて、
彼女の、硬質で冷たい、それでいて必死さのある演技が役にぴったりと合っていて、
自らの心の内に落ち込み、周りに壁を作り、
どんどん孤独になって行くエリザベートにひきこまれました。
幼い頃から快活で、自由を求めていたのに、
王室の中で生き方を決められ、人としての尊厳を傷つけられて、
ああ、この人が「死」に惹かれるのがわかる気がする。
戻る道もなく、自ら孤独の中に入って行ってしまう業のようなものが感じられる。。
観ていて自然にそう感じられました。

実在のエリザベート皇后も生前は死にあこがれ、
死に対する恋文のような詩を幾つも書き残している様です。
そこからこのミュージカルの主要な役、トート(=死)という幻影が生まれたのでしょう。

エリザベートと死(役名はトートという黄泉の帝王/宝塚では男役が演じる)は、
同じ質のものを持っている。
だからこそ受け入れ合い、そして反発し合う。
劇中の「愛と死のロンド」という曲はこの演目の核ではないかと思うのですが、
なぜかウィーン版では歌われて居らず、宝塚版の為に書き下ろされたものらしいです。

**

そして先日観て来た「エリザベート」の再演。
いままで何度も再演を繰り返している宝塚の人気演目ではありますが、
私は1998年上演の宙組公演以来、劇場でこの演目を観るのは久しぶりでした。
(なぜならスペインへ行ってしまったのを機に観られなくなった訳で)

やはり演じる役者に寄って同じ演目でもかなり異なる風を感じるものですが、
今回の風はとても良い風が吹いていたように感じます。
トートがなんだか爽やかで若々しいのが新鮮で特に印象に残りました。
死が常に笑みを浮かべていて(お芝居として)なんだかわくわくしました。


それから晩年のエリザベートが、
王宮に戻らず旅を続け、
病院への慰問を繰り返す場面、印象的でした。
エリザベートが慰問したある病院で、
精神病の女性が、
『私がエリザベートよ。なぜひざまづかないの?!』と歌います。
そういわれたエリザベートは『よくみて、私が皇后エリザベート。』と返します。
精神病の女性は『この人嘘をついてる!おやめなさい!』とあばれだすので、
病院の職員に取り押さえられ拘束されます。
その姿を見てエリザベートは歌います。
『もし替われるのなら
替わってもいいのよ。
わたしの孤独に耐えられるなら。。。
ああ、あなたの魂は自由だわ。
そうよ自由。
ああ、私の魂は旅を続けても
束縛されたまま。

あなたの方が、、、自由。』

そうしてエリザベートはその精神病の女性のもっているぼろぼろの扇と
自分の扇を取り替えるのです。。
が、今回の演出ではこの取り替える場面がなくなっていました。
よりいっそうエリザベートの救いがなくなってしまったような、、
今までの演出を観ていたからこそ、そう感じてしまったのですが。。

こんな風にすこしずつですが、
他にも以前観たものと演出が変えられている場面がいくつかあり
より深く感慨深くなっていました。(再演ならではの醍醐味ですね)

いちど宝塚を観てみたい、
初めて宝塚を観る、というかたには
この「エリザベート」をぜひお進めしたいですね。自分の経験からも^^
(まちがってもどうぞ「ベルばら」など観ませんように、、
演劇として演出が最悪ですから。
・・・まぁ、だからこそ役者の底力が見られるとも言えますが。。。。。)

ともあれともあれ、
今回の「エリザベート」大変たのしませてもらいました!






2014.09.29 Monday

♪ありのままの

 
世を席巻したディズニーアニメ&主題歌
ありの〜ままの〜♪
私も映画「アナと雪の女王」は映画館で楽しんでみました。
でも話題のこの歌のシーンは、とてもつらくて苦しかった。
最も深い孤独の中で、自分を愛する者も慕う者も全て切り捨て
疑似自由になるという歌だから。
もちろん物語はそれが解決ではなくて
まことの結末がちゃんとあり、そこがまた心に響く物語でした。

でもでもやっぱりわたしにとっての
ありのままの、、、といったら
舞台ミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」のザザが歌う
この歌に尽きます。

ーーーーーーーーーーーーー

ありのままの私の姿を見て
この世界に一人だけ
それが私

けなされても拍手を浴びても関係ない
誰のものでもない
誇り高く生きるだけ
そうよ
私は私!

ありのままに
嘘をつかず生きてきた
自分の太鼓叩いて進む
うるさきゃ逃げて

やめてよ!お情やお世辞なんか
自分の世界好きなように生きる
羽飾り
ダイヤ スパンコール
そうよ
私は私!

ありのままさ
言い訳はするものか
胸をはって引き受ける
どんな賭けも

一度だけのこの人生
自分のカードは自分の手でまく
どんなカードが来てもいい
そうよ!
私は 私よ!!


(ラ・カージュ・オ・フォール
ありのままの私/I Am What I Am より)


ーーーーーーーーーーーーー

ありのままであるために自分をさらけ出し
その責任を全て引き受けるザザの生き方。
男でもなく女でもなく、
「ありのままの私」がきらきらと輝いて素敵です。

ザザ演じる市村正親さんがまた適役過ぎる適役で。。



現在は市村正親&鹿賀丈史の豪華夫婦役の人気公演。
市村さんはかなり昔から長い事ザザを演じ続けて居られますが、
前々回公演より鹿賀さんが競演とあって、
ぜひ(私にとっての)豪華キャストで観たい舞台でしたが、
残念ながらのんびりしすぎてチケット戦線にやぶれ観る事叶わずでした。
が、来年、同キャストで再演されると知り、
今回は気合いをいれてなんとかチケットを手にしました。
大好きな日生劇場で、来年2月の開幕がたのしみです。



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