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2018.09.24 Monday

メモ


先日の鎌倉の展示で私の作風に関心を持ってくださったお客様が
『花だけの絵付けはないのですか?』とご質問されました。

つまり、動物が居なくて花だけの絵付けの作品・・。
まったくそういう視点が私の内には無いことに気づきました。

ここおぼえがきに何度も書いていますように、
向こうから訪れてきたものがまず最初に完成形として頭にイメージを浮かばせるので
それをそのままこの世に顕わしているのが私の絵付けです。

私が主ではなく訪れてくるものたちが主ですので、
その意味やモチーフを私が選ぶことはできませんし
そもそも花を描こうと思って花を描くというような作り方を
しようと思ったことがなかったのです。

そういう意味では、
木々や森が私を訪れることはありますが、
花が私を訪れたことは一度もないなあ、と気づきました。

役割が異なるのでしょうか。
興味深いことです。
自分の内にないものは描くことができません。
なぜなら訪れるものたちは「本当に生きているから」です。
それ以外のものは「表面的で、生きていないものを描く」ことになってしまいます。
そしてそれは私の役割ではないと感じます。
何のために地球の土や素材をおすそ分けいただいているのかと考えると、
自分の役割を離れていま任されているお勤めにそぐわないものを作り出すことは困難です。

上記のその同じお客様が、
『この釉薬でもっと大きな・・お抹茶茶碗サイズのがあったらいいのだけど』と
また別のお茶碗をしめしておっしゃっていたのですが、
その釉薬も自然からおすそ分けいただいていたもので
自然のものである以上いつも同じように機会的に作れるわけではなく、
現在は入手できない原料から作られている旨を説明させていただいたのですが、
『もうちょっと大きかったらほしいのに・・』と何度かその後もおっしゃっていました。


自然と言うもの、
そしてそこからのご縁により見せていただくもの、
さらには生き物としての直感というもの、
それによる繋がりと循環。
そういったものから切り離されて
架空のものを私はつくることができません。
突き詰めれば土というものがそもそもそういう質のものなのかもしれません。

そういった自分が居る「界」と「役割」の確認と言う意味でも、
色々なお客様と触れ合うことができる在廊のできる規模の大きな展示会、というのは
本当に貴重で興味深いものだった、、と思うのでした。



2018.09.09 Sunday

つれづれ 〜祓われ 調う

 
この夏はなんだかずいぶん暑かったですね。
スペインの友人から来たメールによるとあちらは冷夏だったようですが・・。

いつもは、陽が沈むと
家の目の前の山から冷気がふぁ〜っと降りてきて夜はすうっと涼しくなるのですが、
今年は夜になっても山の冷気が全く感じられず
まるでアスファルトの熱射が一晩中解けない都心部のような暑さで、
夜になっても気温が下がらないのはここに越して来て初めてのことでした。
生まれも育ちもこの町の地元のカフェのオーナーさん(60才代)に聞いても、
『こんな夏は初めて』とのことでした。

台風が立て続けにやってきて
一過した後もどんよりと滞りが解けず、
暑さに加えて酷い湿度、なにか滞った息苦しさもずっと残っていました。

極端な暑さで疲労感も続き、
自然の循環に乗って体調を回復させることも難しく感じました。
(エアコンはもっと体調がひどくなってしまうので使わなかったのですが)
私には本当に珍しいことに足がむくんでしまい
自然の気象とともに自分の体に異常と警戒を感じた夏でした。

この夏の暑さが来る直前、
6月に前代未聞の3週間の寝たきりになってしまいましたが、
きっちり3週間かけてすべて自然にまかせての毒だしを済ませていたのが
私にとっては不幸中の幸い。
すくなくともこの暑さを乗り切るための体の状態は、
(痩せてしまっていたとはいえ)その時の私にとって
出来る限りベストの状態に調っていたと感じます。
こんなに気象が過酷になるとは知らず6月の毒だしがもしなかったら・・と思うと怖い。
あの3週間の毒だしがあって本当によかった、と今になって思えます。

一番最近の大きな台風21号が来た時に、
なんというのか・・やっと自然の生命力を感じました。
というのもこの夏それまで立て続けに来ていた台風は、
何か無表情と言いますか無機的な感じがして恐かった。
龍がいない台風は初めて(こんなことってあるんだ)だと思いました。
そしてようやく自然の生命を感じる21号によってようやく祓われたと感じました。

この夏の台風には多くの方が、『台風一過してもカラッとしない』と感じていたようで
もしかしたらこういう所から、
現代人に足りなくなった自然の感覚が再び呼び覚まされているのかもしれません。



初夏〜今にかけて
この地球の自然の動きは自分の体調と密接に連動していることを
よくよく感じています。

昨日の例大祭は、去年はバイクで神社まで行ったのですが、
今年は交通規制があることを事前に知って、歩いて行きました。
歩いて行くことでいろいろな発見・気づいた事がありました。
これはまるで本当にサンティアゴの道を歩いた時と同じだなあと感じています。
歩くことで、あと一押しだった流れが、堰切ったように流れ動き出しました。
ようやく本当に体も調ったのでしょう。
裸足で長時間海辺を歩いたことも関係があるかもしれません。

例大祭から戻って来てから
自分の足の裏をなぜかよく見ているのですが、
足の裏の表情が脈打ち豊かになってきているのを感じます。
自分の足裏で気象現象の占いができるかも・笑
・・というくらい自然に連動し顕著に足裏に顕れているので
足裏を見るのが楽しいのです。

滞りも足裏から解けているので、今は気になるところに気功します。
コツは痛くしない事。
痛いというのはそれ以上するなという生命からの警告ですし、
波動が荒いものですからこれを無視せず、
ただ感覚を鋭くして静かな環境で、手のアンテナに頼ってマッサージをするようなものです。
何かを聞きながら、見ながら、はたまたツボの知識などは、
直感のじゃまになり、感覚が鈍りますので要注意です。繊細な波動に乗ります。
(波動・・便宜上この言葉を使いますが、
言葉で伝えようとするとやはり事実とはぶれるので難しいですね)
足裏気功。とても調子が良いです。
今になって京都の気功の学校の先生が『ツボの経絡の知識などは
なるべくお伝えしないようにしています』とおっしゃっていた意味がよく分かります。

ここ近年2年ごとに今までにないひどい体調崩しをしますが
毒だし=祓いだと感じます。(体が調おうとしているのがわかります)
祓いがあるごとに、気づくことがあり、
より善き心身をつくることに心を寄せ、
まず日常できることとして食べ物には本当に気を付けるようになっています。
やはり体は、もっというと心身は、食べ物でできている。
情報よりも自分の感覚に聞きます。
食べ物を手に入れたり、作ることに時間を割くことは
生きることそのもの。
当たり前のことですが。

お稲荷さんのお社があるとついお参りさせてもらいます。
トヨウケノオオカミ。
ウカノミタマノカミ。
もうずっとずっと以前からそこにいらしてて、
人々にその都度忘れないよう、気づくよう、うながされていたのだと思うと、
気づいてよかったと思うと同時に改めて驚嘆と畏怖とを感じます。
そしてまたそれとともにありがたく思います。

昨日も今日も抜けるような気の徴。
呼吸しているだけで心地が良い。
山からの風が涼しいです。
まともな暑さにもどり、汗のかき方も変わり、
ああ、やっと調ったと、ホッとする思いです。

滞り、恐し〜壊し(祓い)、調い、それを繰り返すのがこの地上かもしれません。
自らの心身含めて大自然の声を聞き、直感を鋭くして、
滞りが小さいうちに気づくことも、これからより大切になるかもしれませんね。


2018.09.04 Tuesday

経験の目


陶芸の体験施設で講師をしていた頃は、
ひと月に約1000個ほどの作品に出会っていた。

当時はとにかく扱う作品点数が多い為ただひたすら
お勤めさせてもらっていたのだけれど
今思うと、ひと月1000個もの作品に触れることができるというのは
非常に貴重な経験だったと思う。

知らず知らずのうちに作品をみただけで
その人となり、表面だけでなく内面の奥までもが
自然と見えてくるようにもなった。
加えて作者の言動に触れれば尚更。

7年半勤めてこの施設を退職してすぐに
アートセラピーに興味を持って勉強をしたことも、
この膨大な数の作品に触れてきたことと関係があるかもしれない。
アートセラピーでは、内面の表現には柔らかい素材、
とくに粘土が向いているとのことを知った。
なるほど、と実体験からも思わされた。

また人によっては「セラピー」という言葉に惑わされて
なにか心地よい癒しがあると思われるようだが、
実際には、自分の内面、隠しておいた滞り、しこりとなったものが明らかになり、
その上での浄化、本物の癒しを得る、
それがアートセラピーの神髄なのだということも学んだ。
そしてその隠しておいたものが
知らず知らずのうちに出てしまう、出やすい素材として粘土がある、ということだ。



いまでも作品を見るとぱっとそれを作った人の内面が見えてくる。
工業製品ではない「作品」というものはそういうもので、
また一口に内面、といっても、作った人に似ている作品もあれば、そうでないものもある。
ただ、似ているものもそうでないものも、全てにその理由、心の動きが顕れている。
無邪気な作品、
臆病な作品、
臆病と思われないように気を張った作品、
表面的に取り繕っているものもあれば、
内面を出そうという意図に失敗しているものもある。
中にはつたない技術の奥に、澄んだ深い静謐さが見えることもある。

瞬間的にそれを感じ取れるようになったのは、
やはりひと月約1000個の作品に、
それを作った人々に、
何年もの間触れてきた経験があるからだと思う。
この能力と学びは、最初からそうなろうと手に入れようとしたものではなく、
私の勤めと言う日々の中でいつのまにか手にした財産なのだなあ、とつくづく思う。



余談として、

いまでも作品を見るとぱっとそれを作った人の内面見えてくる、と上記したけれど、
縄文土器は興味深いとつくづく感じる。
内面的なものが現代人とかなり異なる。当たり前と言えば当たり前だけれど。

第一に満たされている。
意図することなく自然に添っている。
目に見えないものごとを敏感に感じている。
個が全て、全てが個 であるという事を知っている。

私の経験の目はそんなことを土器のつくりから感じ取る。
これだけで縄文時代と言うのは
非常に精神性が高い満たされた時代だったんだろうということが分かる。
個が宇宙の全て。
宇宙が個の全て。
最高の幸せではないですか。
それがよどみなく作られたものに顕れている。
だからこそ、日本の縄文時代はあんなにも長く続いたのでしょうね。





(上は國學院大學博物館「日本文化の淵源を求めて」企画展より。
撮影許可あっての写真になります)



2018.08.28 Tuesday

洗脳されてる

 
代替医療というレッテルを貼って
本当はいろいろな選択肢があることを排除して
商売が成り立つようにしている近代医療。
でも
本当は代替なのは近代医療の方で。
本当に治るのは、自然治癒でしかありえない。
近代医療は最低限その邪魔をしてはいけない。

癌治療の人の記事をつい今しがた読んだのだけれど、
医者が治してくれると思い込んでいたり、
選択肢が提示されたものしかないと思い込んでいたり、
見事に洗脳されている。

気功や整体の世界では、
子宮癌など自分で治してしまった人が数えきれないくらい、
私の身近にもいるけれど、
こちらの世界では癌は不治の病ではないし、
病気というのは癌だろうが何だろうがすべて同じで
自然治癒に基づいた体の毒出し。
(特に乳がんや子宮癌は、もともとが毒だしをしてくれる臓器なので、
余計なことをしなければ自然に毒が出て
自然体に戻りやすいように、身近な例から感じています。)
だから最低限、自然の体の働きの邪魔をしないことが大切。
なにが邪魔になるのか、というのは
きちんと自分の・自然の体の声を聞くことができるかにかかっている。

京都の気功の学校で学んだ際、先生からの言葉です。
『何か急いている人は、切ったり薬を飲んだりする事もあるのでしょう。
けれど忘れないでほしいのは、
本来体にとって不自然なものを取り入れているわけで、
それをまた時間をかけて体外に出し去るのは、
自分の体の自然の力でしかできないことです。』



日本人は特に検査や治療が好きだなあ、と思う。
日本の医療業界がそれで成り立っている以上、
魅力的な商品を並べて、
まるでそれが当然のことのように洗脳し、
販売しているわけです。

実際にはいまの医療はかなり混迷していると感じます。
混迷の原因は、医療業界の派閥や利害のように思えます。
特に日本の医療はその道じゃない道を進んでしまったと感じる。
迷い道を抜けるには、かなり元に引き返さないとならないようです。

ひと口に西洋医療というけれど、
もはや西洋の医療の方がよほど
自然治癒を信頼した上でのアドバイスを医者がするので
医者の診断の個人差は多少あるにしても薬などよほどでない限り処方されない。
スペインでは少なくともそうで、
またドイツにご縁がある親しい友人も同じことを言っていた。

選択肢はいくらでもあるし、
医者に行って治してもらう、という意識が働いている以上
自然治癒力が稼働しずらい状況にある、といっても過言ではないでしょう。
たとえ気功や整体でも、
現代医療の病院の先生にかかるような気持ちでいたら
『対処療法となんらかわりない。』(これも気功の先生の言ですが)
つまり、本当のあなたの体の自然が持っている力での治癒力は格段に落ちる、
ということです。

治してもらう、のではなく、自分が自然の循環のなかで信じて、、いや
信じる、ということももはや無意識で、
心地のよいほうに流れて行けばいいだけ。
赤ちゃんなら簡単にできることです。
だから気功では赤ちゃんがお手本です。

気功の学校で一番最初に私が受けた印象は、
『ここはまるで大人の幼稚園のようだな。』というものでした。
当たらずとも遠からず、と思っています。
治療するのではなく、
人生の全て、生き方のことでしかなく、
そして傷や病気といわれるものは、
本物の自然の中では癒され、治るしかないのです。

余計な知識、意識、情報は、本物の自然には邪魔なだけです。
本物の自然かどうかの判断基準は、
"この地上の生き物にとって『自然か、不自然か』"。
最初から最後までただそれだけです。


2018.08.26 Sunday

ひとつの道具

 
古神道の勉強をはじめたばかりの頃、
なぜお金というものが存在するのだろう?という疑問が湧いた。

神社にお賽銭箱がある。
古神道に於いてのお金って何だろう?と。



お金は鏡であり、道具である。

拝殿の奥に鏡が奉られている。
鏡が自分の姿を映すように
お金という道具の使い方はそのままその人そのものを顕す。
100万円のお賽銭を納める方は、
100万円分の業を負っているのかもしれません。
そのままその人の生き方をも映してる。

お金はそもそも最初からその人のものではなく、
そもそも自分のものではないのだから巡って自分の手元に来た時には
神様に『善きことにお使いください。』と神棚にまず挙げてお渡しする。

撤下されたお金という道具は、
神様の前に『善きことにお使いください。』という祈りのこもった道具ですから、
それを忘れずに適した時に使わせて頂けば良いのだと、
そしてその道具を使う姿の顕れそのままが自分自身そのままなのだと、
そのような理解が降りてきました。


2018.08.22 Wednesday

好き嫌い

 
親しい方たちとの食の好き嫌いのお話しが興味深いなと思う。

意外なものが嫌いだったり。
味ではなく記憶に結び付く好き嫌い。
色や見た目の先入観による好き嫌い。

過去、陶芸教室に来られる親子さんで、
『甘いお菓子を食べない。』というお子様も多かった。
小麦粉や砂糖等のアレルギーがあるという場合は別として
そもそも特に甘いものを好まない、とおっしゃいます。

思うに私が子供のころはまだ戦後の影響が強く、
砂糖を使った甘いものは貴重品・高級品という親世代に育てられていることもあり、
たとえばケーキなどは初めから”特別なもの”として刷り込まれました。
味よりも意識が『おいしいもの』と思いこませていたように感じます。

ケーキよりもおせんべいが好き、というお子さんをみていると
もとからケーキが特別なものではなく、
今はもっと食に対してフラットに感じ取れる時代のようにも思われるのでした。
情報や先入観による意識の排除がなされているというほんの一つの事象として、
これは間食をとるにあたって「自分の体の声を聞く」という最初の段階で
とても良い事のように思えます。




今回、壁画制作中の葉っぱ小屋さんにおじゃまして
食の好き嫌い談義に花が咲いてしまいました*


2018.08.16 Thursday

サン・ロレンソの涙

 
日本ではペルセウス流星群と言う名前の方が知られているでしょうか。
スペインではキリスト教の聖人であるサン・ロレンソの日の周辺で見られることから、
「サン・ロレンソの涙」と呼ばれています。

私が住んでいたスペインの窯元の町の守護聖人がサン・ロレンソであったということから
この時期は窯元の町の教会では特別なミサも行われます。

ちなみに陶芸を守護する聖人は二人の女性で夏の神さまです。
(キリスト教的には「神さま」とは言わないでしょうけれども、、
でも元来土着の神であったと思われる事から女神だと思われます)。
この二人の女神のための特別ミサも8月に行われます。陶工たちが集うミサです。

そういったわけで
夏はこの窯元の町にとって陶芸のシーズンであり、大切な時期なのです。
一年で最も盛大な陶芸EXPOも伝統的に8月に開催されます。


話をサン・ロレンソの涙に戻して、
今年は11日12日にピークを迎えると言われていましたが
うちの方ではちょうど荒天に当たり、空は厚く暗い雲に覆われていました。

なので尚更12日の夜中に
ほんの少しの雲の切れ間から星が見えた時、ちょっと嬉しく思いました。

大きな紅い火星。
青白く燃えるシリウス。

目が闇に慣れてくると思わぬほどの数の星が見えはじめました。

そのなかにうっすらすうっと流れ星。

あ。

と思う間もなく消えてゆきました。








サン・フランシスコ 平和を願う祈り


神よ、わたしがあなたの平和の使いとなれますよう。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように
いさかいあるところに、赦しを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように、
手を差し伸べ、お導き下さい。

神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを望ませてください。

自分を捨てて初めて 自分を見出し
赦すことによって ゆるされ
死ぬことによってのみ 永遠の生命がよみがえる
そう深く悟らせてください。

アーメン



2018.08.09 Thursday

あさひるごはんから

 
今日のあさひるごはん。



最近地元スーパーで売られている甘酒が思っていた以上に高品質で旨い!ので
野菜と合わせてジュースにしています。
今日はニンジンとパプリカ、それに自家製ヨーグルトとこの甘酒を加えてミキサーしました。

そしてまたこの人参も甘い!
いつも近所のオーガニックスーパーで買っているのですが、
台所でこのニンジンを切っているともうそのまま食べたくてしょうがない。
いつもひとつまみ二つまみ、ぽりぽりとつまみぐいしながらニンジンを切っています(笑)

サラダは、いま私にとって一番生命力につながっている生のキャベツに
茄子とパプリカの塩もみ、そして昨晩から漬け置いた煮豆のピクルスを乗せています。

煮豆のピクルスも簡単に作れて小皿ものの常連さんなのですが、
(岩塩、上質の米酢、有機はちみつ、有機醤油を混ぜた液にひたひたに浸け置きます。
有機の調味料は常備しているのですが、そのものに旨味があるので出汁など必要ないんです*)
今回初めてニンニクをひとかけ入れてみました。
少々パンチがあって今の季節に食べるのにはよいように感じます。



私が子供の頃はケミカル神話全盛期で、
先進国ならば新しい薬をどんどん開発して
それを日常に取り込んでゆくことが善しとされていました。
当時は無農薬野菜を販売していても、私の母なども当時言って居ましたが
『やっぱり無農薬だと野菜が小さいし恰好が悪い。』
だから多くの人が疑問も持たずに
化学肥料や農薬で大きく見た目綺麗に育てられた野菜を買うようになりました。
需要があったという事です。



いま私が住んでいる町で、ここ数か月でコンビニが2件つぶれました。
それは今や需要がないという事を示していると感じます。
この町では地元商店が活発なこと、
野菜に関しては自ら小さな農地を持っている人も多いですし、
オーガニックのものがわりと普通に受け入れられています。

小さな町にもかかわらずオーガニックのカフェも意外と沢山ありますし、
かなり硬派な(おしゃれ系ではない)オーガニック専門のスーパーもあります。

東京から友人がこの町に初めて遊びに来た時に言いました。
『これ、この町だからこそオーガニックのお店やっていけるんだよ、
オーガニックスーパーの個人商店なんて東京だったらすぐつぶれる。』

そう、私も40年以上東京に住んでいましたが、
意識してオーガニックの野菜を手に入れようとしても、
大手企業のなんとかシステムとかなんとか協とかに加入しないと
なかなか新鮮なオーガニック野菜を常時手に入れることが難しかったのです。
なんでも手に入る東京なのに。



今は、化学肥料で大きく育てられた野菜に疑問を持つ人も増えました。
意識喚起で「野菜は小さいものを選ぶ」と呼びかける専門家もでてきました。
化学肥料&農薬で育てられていたら大小あまり関係ないような気もしますが。。
それでも気づきのきっかけにはなるのかな、と思いました。

科学肥料や農薬で疲弊した野菜は、
化学肥料不使用・無農薬で育った野菜の栄養の10分の1しかないと言われます。

食品の素材が疲弊していて含まれる栄養が薄いから
栄養素が足りてないと体が反応するので、お腹が膨らんでも食べつづける、
ということも考えられます。
実際私もそういう体験をしました。
ちゃんと栄養がある食材でしたら量は少しで満たされるんですよね。

例えば一般的に、
「にんじん1本に、この栄養素がこれだけ入っています。」と言われても、
実際には、ケミカルに育った野菜だったら
にんじん10本分でようやく言われている栄養素の量がとれるわけです。



地元の、冬場だけジビエを出すレストランのオーナー氏が、
日本の生ハムを作っている現場に居られたことがあり、
その後レストランをオープンされてから、
スペインの生ハムを作っている工房を見学して一番驚かれたのが、
スペインでは生ハムを塩に漬けても水分が全く出ず、
肉を漬け終わった塩がサラサラしているのだそうです。
日本の、生ハムにするお肉は塩に漬けるそばから肉から水分が出るのだそうです。

つまり。
日本の豚肉はあまりに薬漬けにされていて(疫病などの蔓延防止のために
予防注射をたくさん打たれています。)、
生き物として体の造り、
ひいては細胞壁など薄く弱っているのではないか、と。

いや、なにより、これは私の意見ですが、
ハッキリ言って、日本の生ハム、美味しくないです。
スペインのものとは別物です。
最初はぶたの種類が違うからかな、、と思って居ましたが、
でも上記のお話から、なんだか納得してしまいました。

日本の生ハムが美味しくないのは
美味しく食べることや食べる人の健康より、
自分が損害を出さない事、なるべく安易に利益を上げることばかりに着眼した結果かな
とも思えます。



この6月に体調をくずしていたときに、家族がまめかんのパックを買ってきてくれました。
原材料名をみると、色々書かれているなかに「シリコン」とありました。

寒天は寒天粉を温め溶かして冷やし固めるものです。
その溶かす手間や温度が下がるまでの待ち時間をロスとして
利潤を上げるために、シリコンを硬化剤で固めているのです。
シリコンって食品じゃないんですけど。
こんなのあきらかに美味しくないでしょう。

利潤(安く沢山便利)のことを優先し、
自然の食材を活かして美味しく食べられるようにとか、
食べる人の健康を考えていないものを食べるつもりは全くありません。



日常の中で、その季節のものを食べて次の季節を迎えるために体を整える、
と言う話をおぼえがきに以前書いたと思いますが、
逆に、季節に関係なく同じものを常時食べ続け、
エアコンで同じような温度環境の中で暮らしていたら、体は整わないのではないでしょうか。
単純にそう思います。

今年の夏は確かに暑かったと思いますが、
春から夏にかけての野菜たちがちゃんと都度体を助けてくれました。
今年はそれがとくに顕著にわかったので、ほんとうに食には感謝です。。

6月は、調理したものがまったく食べられず、
なるべく生のままで野菜や果物を食べ続けていたことも
これは毒だしだっただけでなく、
もしかしたら体の自然はその時点で今年の夏の気候を知っていて
備える為だったのかもしれません。

自然の状態に於いて、意識や情報を失くし
本来の体の声を聞くことの大切さをつくづく思います。



利潤や、エアコンの循環のなかに居るのではなく、
自然の生命力の循環の中に居れば、そこには常に根源からの安心があります。



今日は扇風機すらいらない心地のよい風吹く夏の気候。
台風の置き土産でしょうか。


2018.07.15 Sunday

すべては自然の中で連動し繋がっている日常のなかの永遠に続く根本。

ふとんをほしているので、
屋根のほうからおひさまの良い香りが香って来る。

どんな高価なお香もかなわない、しあわせの香り。

*

野菜では瓜ファミリ−が大好物なのだけれど
その季節にとれる野菜や果物は、
その季節を、もしくはその次の季節を迎え、
のり越える身体の準備のために自然が用意してくれた食の宝。

自然はとてもゆっくりでとても力強く、そして決して間違いなく導いてくれる。

『体は食べ物でできているのだから、薬で治るわけがない。』
どなたの言だったか忘れてしまったけれど、
先月の体調不良の中で思い出しては、つくづく芯からうなずける言葉だった。

先月ひとつきも寝込んでしまった長引いた体調不良が、いまは嘘のように、
こうしておだやかな体の状態で居られることが
そして自然に沿う事で治せたことが、とてもうれしい。
そのことを深く理解して本当に力のあるお野菜をくださった全てに感謝しています。

『どんな病気でもみんな同じです。』
とは気功を学んでいた京都の学校の授業の中での先生の言葉。
実感をともなって納得。

現代医療を否定していわゆる代替医療的なことをしていても
対処療法的に依存心でもって行って居たら、現代医療となんら変わらない。
病気になったから、まるで薬を飲むように、医者にかかるように、
対処的に突然気功を始めても何の意味もない。
気功の先生は医者ではないし、気功は薬ではない。
すべては自然の中で連動し繋がっている日常のなかの永遠に続く根本。

*

オーガニックの野菜などやはり高いと思って居たが、
じっさい昨日、農協の直売所をのぞいてみたら、
昨日はむしろオーガニックのスーパーで売っている野菜の方がすこし安くて、
やはり農協が関わると時節の状況によって何か調整が入るからなのかな、と思いつつ、
いや、値段が安いからというのではなく、
目を向けるのはそこではなく、
食について根本的に見直す時期に来ていると思いかえす。

久しぶりにいままでよく買っていた大型スーパーに行ってみると、
野菜がまるで商品のように並んでいて、
買うがわも商品を選ぶようにして買っている。
いままでそれが当たり前だと思って居た。
けれど当たり前じゃなかった。
商品棚に並んでいる野菜はすべて命なのに。
そして、命なのだと思ってみてみると、
野菜も買う人も、
みんななんと無表情で力のない顔をしていることか。
ここでは「大地」が、「陽光」が、致命的に欠けている。

命をいただくことの大切さを改めて思い知った。


2018.06.12 Tuesday

病床より



一日はとても長かったんだなあと思ったり

太陽の位置でかなり正確に時間が分かるようになったり。

ただ寝ていても

学べることいろいろ。




食事があまりおいしいと感じることがなく
食欲もないので、食事のとり方がわからなくなってきていました。

調理したものをたべると具合が悪くなるので、
いまは果物が主食です。
果物はとてもおいしいのに、煮込んだものなど食べると気持ちが落ち込みます。
なぜなんだろう?材料は調味料に至るまですべてオーガニックなのですが
とすると煮込みに使用している鍋の素材が原因?!(さすがにアルミ鍋は使っていませんが。)

そしてまた、おなかが空いてないのに時間だからと食事をすると
明らかに体調不良になる。


ある朝、起き抜けに、おなかがすいていたので食べたバナナがとてもおいしかった!
あぁ、バナナって深い甘さがあってクリーミィで本当においしいんだなあと思った。
体中が細かく震えて満足しているのが分かりました。


病床で「アナスタシア」を再読。

彼女の言う種の蒔き方や植物の育て方は実践したいと前から思っていたけれど、
今回、彼女の食事のとり方を読んで、はっとした。

森のそこここに生えているハーブなどを歩きながらほおばり、
ベリーをみつけたら食べたいときには食べている。

とにかく、食べたいときに、食べたいものをちょこちょこつまみ食いしているのが
彼女の食事のとり方。

なんて自然!

決まった時間に規定量の食事をとることを繰り返すのが食事だと・・・いつの間にか思って居た。
からだは必死に現代社会の合理性に合わせてたんだ。


目から鱗が落ちて以来、
食べたくなったときに、食べたいだけの果物(1回の食事にそんなに沢山の量はいらないんですよね)を
ちょびちょび食べている。

この食べ方に切り替えてから、
口にしたものがとても繊細に美味しく感じるし
(あまりに美味しいので自然に目の前の植物への感謝の気持ちが湧いてきます)、
単にお腹一杯になるのではなく、ちゃんと身体のエネルギーになるのが分かる。
満足度が高いんです。
そして当然のように食べ過ぎるということがない。
もしかしたらお腹一杯食べるという概念は植え付けられたもので体にとっては負担でしかないのかもしれません。
腹八分目ですらなくていい。

社会通念に縛られず
食事のとり方を根本的に改善しようと思う。

体のために。


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