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2019.08.11 Sunday

食つれづれ。

 


湿度が高くてなかなか乾かなかった。
やっと窯スタートしました。
海の心音。





昨日、いつものパンカフェに行ったら
マスターが手ずから育てたオクラとアスパラガスをくれました*

家に帰って煮びたしにしたら、衝撃の美味しさ・・・。

オクラってこんなにも甘くて優しい・・・
するっとヘタまで食べられました。

そしてアスパラも身震いするような
まるで新鮮なお刺身をいただいているかような美味しさ。
お野菜ってすごい。
いま採ってきたものをすぐいただくことの重大さを感じます。

生まれてから一度も冷蔵庫で冷やされたことがないお野菜たち。
美味しいだけでなく
エネルギーが全然違う!
心の満足度が全然違う!

そしてやっぱり誰がそれをどう育てたのか
ということもとても大切だと感じました。

よくスーパーで「山田さんのじゃがいも」とか
「加藤さんのレタス」とか書いて売っていますが、
そういうことじゃない。
だって山田さんや加藤さんがどういう人か、私しらないもの。
だってやはりその人の育て方が、意識が、お野菜に反映されるから。
お野菜も生き物ですから、影響を受けてます。
本当にそうです。

量産され、ただ商品のようにしか扱われていないお野菜たちは
とても無表情で心が閉ざされている感覚。。
もし人が同じように終始育てられたら、
きっとそんな無表情になってしまうのではないでしょうか。。
お野菜も同じです。
生き物ですから。

食をいただくことの根本を感じます。





前にぺいすさんでこんなお話しを聞きました。

店長のじゅいくん(10才)に、
お客さんがわざわざ北海道から
美味しいシカ肉(ジビエ)をもってきてくれました。

じゅいくん『シカは友達だから食べられない。』と断ったそうです。
そしてぺいすファミリーも受け取らなかった。

『わざわざ北海道から持ってきてくれたのにね。』と微笑みながら語る
るんちゃん、素敵でした。

美味しいからと、わざわざ遠く北海道から持ってきてくれた
お客さんからのお土産を子供が受け取らなくても、
「せっかくなのに悪いから」という気持ちから、
親御さんが受け取って、そしてそれを親御さんが食べていたら、
それはもう「違う」と私も思いました。

じゅいくんがシカ肉を断ったのは彼の生き方そのもの。
そういう本質的なことをじゅいくんのご両親がちゃんと
心のレベルでわかっているのが
ぺいすファミリーの素晴らしいところだなと感じます。



私は、外食ではお肉を食べることもあるのですが、
家で食べるものに、まず肉を買うことがありません。

以前、普通にスーパーなどでお肉を家で買っていたとき、
料理しようと手に取ったお肉から
悲痛な叫びのようなものが聞こえてくるような・・感覚がありました。

そうやって「商品」として肉をとられた生命の悲痛な叫びが
振動としてお肉の中に残っていたのかもしれない、とも今では思います。
食をいただくことについて考えさせられる出来事でした。

肉を食べることがだめなのではない。
けれど、食に対しての深い心からの感謝がなければ
それは食す側にとって、その肉を体に入れたとき
害になるのだと感じました。

もちろん肉にかぎらずです。

これはあくまで私の印象なのですが、
命をくれたものたちに添う『いただきます』の思いが持てない人に、
心の病気の方が多いように感じるのは偶然ではないかもしれません。

2019.08.09 Friday

存在の意味


神奈川県立の陶芸工房で7年半の間講師をしていました。

県立ということで、
県内の学校や施設の団体さんが陶芸をしにやって来ることも多々ありました。

そんな中、私の認識を180度変えさせてくれた団体さんがありました。



工房の事務所スタッフから連絡があり
障害者の団体の代表さんから工房の予約がありました、との事。

「○月○日、8名なのですが。。」

お話をお聞きすると重度の障害者の方々ばかり8名の団体さんでした。
障害者一人一人に、介護者が一人か二人付きます、とのこと。

そしてその中のおひとりは、ベッドに寝たきりで、
常に生命維持のための装置を付けておられる、とのことでした。
『陶芸をしたい』というご本人のたっての希望から、
ベッドごと、陶芸工房に入って、陶芸をさせてもらえないか、とのことでした。

工房の事務所スタッフと話し合い、そして受け入れを承知致しました。


当日、その8名の団体さんと付き添いの方々がやってきました。

床にシートを敷いて、
椅子に座れない方は、寝そべって粘土を触っています。

ベッドで来られた方は、
まず付き添いの方がこうおっしゃいました
『何かものをつくることはできなくていいんです。
足の裏の感覚は生きていますから、
粘土を足の裏に当てさせてください。』

生命維持装置のついたベッドの中のその方と、
私は上手にコミュニケーションがとれたかどうかはわかりません。
けれど、ひんやりとした粘土を足の裏に当てる、
気を付けなれば気づかないほどの少しの反応がその人に在る。
それがその人にとって、やってみたかった未知の新しい感覚であり、
こうして工房に命がけでやってきたことがどんなすごい冒険だったのかは
伝わってきました。


”陶芸のために、しかも物も作れないのに、
足の裏に粘土を当てるために命の危険をおかすなんて馬鹿げてる。”

そういう人もいるでしょう。

”ただ家にいてくれれば、家族だって、付きそいだって安心なんだ。
それが一番のバリアフリーなんだ。
命の危険をおかすより、
足の裏に当てたければ粘土を家に持って来て当てればいいじゃないか。”

そういう意見もあるかもしれません。

しかし、それでは、
何のためにこの人の魂はこの世界に生まれてきたのでしょう。

その人がやりたいということに向けて困難な冒険を乗り越えて
魂のきらめきを得る。
障害者に限らず、つまり生きることはそういうことではないでしょうか。


陶芸でお茶碗をつくることが大事なのではありません。
大切なのは明らかに物質ではない。
健常者だからこそ忘れてしまっています。
鈍くなってしまっています。
だからこそ逆に差別意識が自らの中に存在していることにすら気づかないのです。

陶芸をするためにベッドで来られたその方が目の前に存在したことで、
この世に生まれてきた本質を私に知らせてくれました。

人にはそれぞれ生まれてきたその存在というもの自体に深い意味があり
それは他人には決して代わることができないのだと思います。




魂にこの言葉が響きます。


『私はこれまでありのままの人生というものを嫌というほど見てきた。

……息をひきとる仲間を両の腕に抱いたこともある。
彼らはみな、うつろな目をして、
おれはなぜこうして死んでいくのかと私に聞いていたのではない。
いままでこんな人生なんのために生きてきたのかと私に聞いていたのだ。

ああ

人生自体がきちがいじみているとしたら、

では一体、本当の狂気とは何か?

本当の狂気とは?

夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。
現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれぬ。

だが、一番憎むべき狂気とは、
あるがままの人生にただ折り合いをつけてしまって
あるべき姿のために戦わないことだ。』


舞台「ラ・マンチャの男」より





時代が令和となったので、いまは、
あるべき姿のために軽やかに、舞うように、と致しましょう*


2019.07.23 Tuesday

つれづれ

 
政治は、
政治家や、
有識者のような政治や経済に詳しい方たちのものではなく、
ごくごくふつうの国民のものなんだよなぁとつくづく感じた今回の選挙でした。

もっと投票率が上がればいいな。

おそらく死をも超えてエネルギーの波動がこまやかな候補者が何人かいました。
「すべてエネルギーで見るのよ」と教えてくださった方がいて
ああ、政治もそうなんだなあと実感しています。

未来に可能性を感じています。

平成と令和のはざまで苦しんでいる人たちが解放されますように。


2019.06.07 Friday

伝えられる叡智


『苦しみの源は、「知らない」という無知な心であり、
幸せの源は、全てのもののありようを理解する智慧である、
と言われています。
教えを聞いて何か新しいことを学び、
学んだことについて考えるという実践によって
智慧を育むことが重要なのです。』

ダライ・ラマ法王14世

*

古神道で、
知って犯した罪より
知らずに犯した罪の方が重いという。
知って犯す罪は知っているからこそ加減が入るけれど、
無知であれば加減せずに取り返しがつかなくなる。
だから学ぶということは非常に大切である、という。



学びは尊い。

体験から学ぶこともあるけれど
自分の経験範囲では思い込みにとどまる。
自分の範疇を超えて
一部の本物の書物よって叡智のエネルギーを伝えられていることは
本当に尊いと思う。

宗教が扱う分野で(あくまで扱う分野であって団体の宗教ではない)、
その本筋の勉強を免がれて、
ただ直感にてイメージだけで
自らそれが何かもわからずに
「光」だの言って周囲を惑わせてしまう。
学んでいないゆえに汚水のような言葉をそれと知らずに周囲にぶちまける。
咎です。
本筋の民族的宗教とは一線を画す。
古来本筋の民族宗教からの学びを免れようとしてる人がその咎に引っかかる。
知らずに犯している罪ゆえに改善されることもない。

学びは大切です。

*

日本にいることで
古神道というものを実生活と古来の書き記された物との
両面から学ぶことができるのは
本当に恵まれた環境だとありがたく思う。
日本は本当に宝の山だ。

スペインでは体験から古神道を学ぶことはできるけれど
古神道の古書から学ぶことは非常に難しかった。
また古書と照らすことで深い意味に届くこともあれば
自分の思い込みを正すこともできる。

そういう意味では大好きな故郷スペインを離れ、
日本へ帰国したことの大きな意義をいまつくづくと感じています。



古神道の勉強は、
そもそも組織だったものや教義がないので
独学ではあるけれど、
本物の学びが大地そのものにつながり、
大自然そのものにつながる実感があります。

そして私が学んでいることが
ただの思い込みではないと感じさせてくれる出会いが
ここひと月の間、怒濤のように起こっているのはなぜなんだろう。
まるで答え合わせをしているみたい。

魂の核を揺り動かす人たちとの出会い。
つられて体調もとても良い(笑)
そのすべてがジャンルは違えど、
みな純粋な表現者であるという事も興味深いことです。

そして出会った表現者はみな、
生まれてくる作品は自分のものという狭義のものではなく
おおきな自然そのものに統合されている。
同じ方向を向いている人々の輪であり和。

そしてそういった「ジャンルが異なる人々」と
魂の核で出会えたことに重要な意味があると感じます。

あまりにいままでと異なる自分の状態と環境に、
令和というタイミングに働く力を日々感じ取っています。

これまで叡智を授けて下さった人々や
書物・それを書かれた人々に感謝を。
これからも精進して学んでまいります。


大好きな自然に寄り添いながら
道縁のある人が連綿と伝えようとしてきた叡智を受け取る楽しさ。
すべては連動している。


(写真は産土神社の亀ヶ岡八幡宮にて)


2019.04.23 Tuesday

じぶんの国のことば

 
先日の展示BOSQUEにお越しのお客様から
うれしい展示のご感想とともに、
次の元号が令和と決まったことについて、メールをいただきました。
その言葉の響きを聞いた時に
『これでもう大丈夫、安堵と感謝の気持ちになりました』
との旨でした。

元号に中国からの言葉ではなく、
大和言葉をつかわれたとたん、
音魂を受け取った方が多く、私も安堵と感謝を感じています。

そのいっぽうで、先日すごく奇妙なことを言う方もいました。
令和の令が命令の令だからいやだというのです。
でもそれはとてもおかしな話。
例えば
『幸福の幸は、不幸の幸だからいやだ』と言ってることと同じです。
まったく関係のない他の漢字をくっつけて別の意味にして嫌がっている・笑
大和言葉を音でみるということを忘れてしまっているのですね。
大和言葉にとって漢字の意味はまったく関係がありません。
(漢字の意味を消すためにわざと全てカタカナで書いたりするのも
言霊をみつめるのには一つの方法として効果的です)

国会にあがった案で、国立大学から文系を廃止するというのがありましたが、
どうなったのかな。
元号が令和になったことで万葉集が売れているらしい。
表面的なブームとはいえ、自国語が注目されることで
この案にストップがかかるといいなあと思います。
国が先だってこの国の言葉、勉強できる機会をもっと増やしたほうがいいよ。

自国をまずよく知ることが国際社会に向けての不可欠な基本中の基本だと、
私自身、文化交流をしていた経験からも言えると思っています。


2019.04.05 Friday

ヤベツの祈りから


“ヤベツは大自然に呼ばわって言った。
「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて
私が苦しむ事のないようにしてくださいますように。」
(旧約聖書 第一歴代誌4:10)


“人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。
しかし大自然は人のたましいの値うちをはかる。
あなたのしようとすることを大自然にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計画はゆるがない。”
(箴言16:2、3)

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イスラム教では聖典を翻訳することを禁じています。
それを知ったとき、正しい見解と認識だと思いました。

翻訳の仕事に携わる機会があるといつも思うのですが、
言語を訳すということは
原文から逸脱して、
それを訳した人物の人生観や経験、知識、物事に対する認識などが
反映せざるをえません。
言葉というものはほんとうに厄介なもので、
特に民族や文化を深く反映してきている聖典や
それにかかわる文書においては顕著に、
その文化が元々ない国の言葉に訳された時点で
原文とは別物になっている、と考えた方がよいでしょう。
(だからこそキリスト教においても、神学では、
原語であるラテン語を学び読むことを重視しているのでしょう)

そういうことをふまえながら、
キリスト教の聖書から上記の言葉を書きだし邦訳してみました。

ただ、一般的に販売されている聖書では
「神」や「主」と邦訳されている部分を
「大自然」と私は訳させてもらいました。

「神」を何とあらわすかは、
国の文化、民族性、歴史、そのほか様々なものが混入しており、
一概に「これが神です」とは言えないものだと思っています。

ただあくまで私の認識から、「神」という言葉は
「自然」という言葉に置き換えることができるという気づきがあり
上記の邦訳をしてみましたが、
非常に違和感のない心に届くものになったように感じました。
「神」や「主」と書かれていた時よりもよほどすんなりと理解できます。

スペイン語ではカトリックの神のいわば御神徳を指して
Espíritu Santo(聖霊/聖なる魂)と言います。
聖なる魂がなにか?と心に問うたとき、
私はやはり「自然」を無視することができません。

この認識で持ってもう一度聖書を読み直してみたいと思っています。



以前、スペインに住んでいたときに、土着のカトリックと、
日本の土着の古神道がとてもよく似ていることに気づいて感銘を受けたことがあります。
ただ、それを日本の友人に説明することが大変難しかったのを思い出しました。

宗教として教義や聖典などの物質や目に見えるもの、言葉にできるところではなく、
この地上に生きる生き物としての自然へのかかわり方、超自然へのかかわり方、
あるいは認識の仕方が、
土着古来の宗教というものには色濃く反映されており、
そういう部分でもって
土着のカトリックと古神道は大変近しいものだと感じたのです。
そしてそういった土着のものである以上
圧倒的な「自然」という存在の上でみな成り立っているのだと強く感じました。

そう感じた具体的な意味合いや、言葉でも説明できるような事柄が、
もしかしたら、上記したようにキリスト教の聖書にでてくる「神」という言葉を
「自然」という言葉に邦訳し直すことで
日本人の心に届くものとして、もしかしたら浮かび上がってくるかもしれません。

『祈る姿はどの国もどの人種も同じ。』
と、様々な国を旅してきた友人が言いました。

宗教とは護符でも依存の対象でもなく、ましてやプロパガンダなどでもなくて、
あくまでこの大地の自然に生きる上で、人にとって必要なひとつのツールであり、
この宗教というツールでもっていつしか本質に触れることができたとき、
その本質とは、この地上のあらゆるものにとっての本質なのだと感じています。

その本質に触れることができたとき初めて
なぜキリストが十字架にかけられなければならなかったのか、という意味も知るでしょう。

4月14日から始まるカトリック最重要である祭祀、セマナ・サンタ(聖週間) によせて。


2019.04.02 Tuesday

ことだま

 
うつくしいことだまが
新しい元号に選ばれて本当によかったなあと思っている。

レイワ。

ことだまの響きは、
人それぞれの魂の在り方によって
それぞれに異なって聞こえるのかもしれないけれど、
私のところに来ているご縁では、

「レイ」は、自然の力で調う美しさ。

「令月」も、
「令泉」も、
令/レイは、
一点の曇りもない
うつくしく凛々しく調った魂を持つ。

「ワ」は
皆善の和であり
カミーノ(=自らの道)に還る環。


また、語尾の母音が「あ」で終わっているのもとても良い。
解き放つ音。

いつも海へいくと、何か言葉を投げかけるとしたら
「あ」になるのですよね。
「い」でも「う」でも「え」でも「お」でもなく、
海にかける言葉はやっぱり「あ」だと実感したことがあって。
(ちなみに山にかける言葉は「お」。)
瀬織津姫へ贈る言葉は「あ」の母音によることだまなのかもしれない。


これまで中国からの出典だった元号が、
日本の万葉集から選出されたというだけで
これだけ豊かにことだまがご縁を結び
動きだすものなのだなあ、と驚いています。

(キリスト教における聖書のような聖典がない古神道に於いては
記紀とともに、万葉集などの幾つかの古典も、
学びの上で聖典に匹敵する程の非常に大切な書物とされています。)

物質から精神の世の中へ。
この言葉が元号に選ばれたこと、
ひとびとの思惑をゆうに超え何か神意が働いたと思えて仕方がない。



山桜が満開です。


2019.03.28 Thursday

癒しと調和


先日におぼえがきに
富士山噴火により埋まってしまった関東の古代文明のお話を書きました。
ポンペイのように短期間での話ではなく、
富士山は歳月を重ねて繰り返しの噴火がありました(そしてこれからも)。

それは地球が生きているということの証の一つです。

富士山の噴火を人の力で止めることはできません。
止められたとしても
そのしわ寄せが他に現れ出るだろうことは想像に難くありません。

気功の学校で学んでいた時によく先生が言われていたことが、

『ツボの経絡などはなるべく皆さんにお伝えしないようにしています。
知識や意識は体が持つ自然が調おうとすることを邪魔してしまいます。
確かにツボの経絡のような知識は[便利]かもしれません。
しかし体が調う自然の治し方というのはそんな単純なものではなく、
どういう仕組みで、どこからどのように調ってゆくのかは全くわからないのです。』

そして、体の声を聴くことと直感に従うことの大切さを問われました。
非常に理に適った本当のお言葉だと今も感じます。

富士山の噴火も同じことですし、
その他人間が[自然災害]と名づけているものも全て同じことです。

つまり、人のものさしで狭い範囲の利己利益をはかってこその
[自然災害]という意識であり、
本来は災害でも何でもなく根本的に地球の癒しなのだと思います。
そしてそれを忘れてはならないと思います。

忘れて目先の人利益のみを考えた対応をしていると
必ず他にそのしわ寄せが顕れることでしょう。
それはまた長い目で見て人の首をも絞めることになります。
(科学も現代医療もまったく同じことが言えます)

自然は本当に細やかにすみずみまで行き届いた完全な癒しを
長い時間の単位の中で行います。
人の最先端の科学がいかに遅れており、幼稚で稚拙なものか思い知ります。

自然に沿った深い心があれば
人も自然の中の砂の一粒であることの幸福を知ります。
命の根源に届く他に比べようのない幸福を
自然はたった一粒の砂にも与えてくれるのです。
実際にサンティアゴの巡礼で何もかも削ぎ落とされた時、私はその体験をしました。
あの至上の幸福は決して消えることはありませんし、何度も現れます。

本来こうやって大地に癒され生きるのが大地の子であり
人も決して自然の中の例外ではありません。

現代人は本当に鈍くなってしまいました。
地球の歴史から見たらほんの数秒にも満たない経済社会が生まれ
その洗脳による利己主義が
自然の仕組みを大きく崩してしまいました。
自然は調えるために癒しを起こすのは当然です。
それは長い目でみてこの大地のすべてが調うために起こすのです。
そして自然は決して間違うことはありません。完全に完璧に調えます。
意識や知識から人が手を加えたりさえしなければ、
すべて自然に任せていれば調う方向に行きます。
上記した気功と同じです。

余計なことをせず自然の声を聞く。
自分の体そのものが最も身近な自然です。
経済利潤の社会から完全に切り離し、
今まで常識と言われてきた人の意識の幻想から解かれて、
まずは自分の体の内の無意識の声を聞く。
それが、根源的な癒やしと活性化の道で他にはありません。
私も自らの体の不調から体験、実感しました。
最低限余計なことをしない。
自然に任せる。
それが隅々まで調えてくれる自然の力です。

体にとって必要のないもの、不自然なもの、害のあるものを蓄積しない、
という意味で、
体の排出力が高まってくると、
洗脳の世界では「アレルギー」というだけです。
根本を見ればアレルギーでもなんでもありません。
溜め込むと体に害があるので、体から輩出しているだけです。
判断の基準は「自然か不自然か」。
地球と自分の体がやっていることは同じです。
癒しと調和。

人の利益だけを追った価値観にとらわれず
よく考えてみることが必要です。


2019.03.12 Tuesday

うつしよのまにまに

 


花瓶に活けたチューリップの命がついえる時
それはいつからを言うのだろう。

花が枯れたとき?
でも葉はまだあおい。
人の美観にそぐわなくなっても
そのチューリップはまだ生きているように感じられる。


むかしインスタレーションの展示に使用するので
たんぽぽを野原から根付きで採ってきて植木鉢に植え
そして全く日の当たらない
ギャラリーの室内に一週間置いたことがあった。

展示期間中、萎れてきた鉢上げのたんぽぽに化学肥料を与えた。
するとみるみるピン!と萎えていた茎が持ち直した。
馬鹿な私はその化学肥料の威力に感心した。

それを見てギャラリーのオーナーさんは『可哀想に』と言われた。
そこで初めて気づいたのだ。
これは命の輝きではないと。

どこからが生でどこからが死なのか



自分の無力さを知って
自分は本当に馬鹿だと心底知って


そしてまた明日より生まれ変わる。



今までそばで命の輝きを楽しませてくれたチューリップは
夕方、波がさらってゆきました。





高山之末短山之末より
佐久那太理に落多支都
速川の瀬に坐す瀬織津比廚髪梢
大海原に持出なむ

如此持出往ば
荒塩之塩の八百道の八塩道之塩の八百会に坐す
速開都比廚髪梢
持かか呑てむ

如此かか呑ては
気吹戸に坐す気吹主と云神
根国底之国に気吹放てむ

如此気吹放ては
根国底之国に坐す速佐須良比廚髪梢
持さすらひ失てむ

如此失てば
今日より始て罪と云ふ罪は不在と
祓給ひ清給ふ事を 
天津神
国津神
八百萬の神達共に
聞食せと恐み恐み申す





2019.02.19 Tuesday

肩書

 
今回の旅でご紹介いただいた方々に
私の仕事について言葉で説明をする場面があったのですが、
私の仕事が単純にカテゴライズできる内容ではないため
こういう場になるといつも説明がむずかしく思っていました。

便宜上「陶芸家」という言葉を使うこともあります。
けれど日本で陶芸家というと、非常に狭い範囲にとらわれ、
私の作品がその狭い枠に収まっていないことを
まるで間違ったことのように指摘されることもこれまで多々ありました。
日本人にとって陶芸という言葉は
それほど実用器に限定して使われている言葉のようです。

私が解放されたのは
スペインの窯元で暮らすようになってからでした。

スペインで陶芸家に相当する言葉はceramistaになります。
けれどceramistaの守備範囲は人の生活に密着して相当に幅広い。
器はもちろんですが、タイル文化があるので、
教会などのマリアやイエスのタイル画を描く
ceramistaの仕事は画家と変わりありません。

タイルということで言えば、
通りの名前を記すタイル、ベンチ、橋、広場、
さまざまな公共物の絵画装飾もceramistaの仕事です。

立体造形であれば、
電気の傘も電気屋さんに行けば当たり前のように陶のものがありますし、
洗面器など洗面所各所に使われる陶器は日本でも見かけますが
装飾性・作家性が高いものが多くみられるのもスペインならではで、
これもceramistaの仕事です。

普通のお家でも食堂のテーブルセンターに飾りオブジェ
(実用性がない正にオブジェです)を置き日常を楽しむ習慣がスペインにありますが
このオブジェにも陶のものも多く、
また季節ごとに飾り変える部屋飾りのインテリアオブジェ
(彫刻的な立体作品や壁掛けのものなどさまざま)、
パティオと呼ばれる涼をとるための中庭の文化があるので
中庭を装飾するための絵皿やオブジェも需要があり、
これらオリジナリティの高いオブジェの仕事もceramistaの仕事です。

実際スペインのceramistaの友人たちは、
タイルの絵付けをする画家もいれば、
オブジェのみつくっている造形家もおり、
またもちろん器を作っている作家もおりますし、
私が居た窯元の名産である伝統的な水がめを
大きな町のお土産屋さんに卸している職人さんもいます。
みんなすべてceramistaです。

日本で自分の肩書を『陶芸家です。』というと
型にはめられる息苦しさを感じますが、
スペインで『ceramistaです。』というと、
必ず『何を作っているんですか?』と必ず聞き返されます。
それほど守備範囲が広いのが陶芸の仕事だからです。
日本ではカテゴライズできない私の仕事も
スペインではceramistaの一言で済みます。



お話をはじめに戻しますが、
今回の旅でご紹介いただいた方々に私の仕事について説明をする場面があり、
私は、上記のような説明を長々とさせていただいたのですが、
みなさん丁寧にご理解を持ってお話を聞いて下さったのがとても嬉しく思いました。
土地のおおらかさ、ゆったりとした感性の豊かさ・柔軟さを感じました。

浅いお付き合いでよしと思うときや、
その時限りの流しでのお付き合いの場面では
便宜上「陶芸家」と名乗ることもあります。
そのあたりは、日本ではうまく使い分けていけたらと
(陶芸家という枠に閉じ込められ苦しめられてきた身としては
状況を見てなるべく心がすり減らない方法をとろうかと)今では思っています。


日本で私の作品をご理解くださり、
お力添えくださっているギャラリーオーナーさまがたには
本当にいつも私の肩書の表記についてはお気遣い頂いて恐縮ではあるのですが、
正確に把握しお伝えしたいというお心遣いが本当にありがたく、
作品をお取り扱い頂く安心感にも繋がっているところです。
これはもう本当に感謝です。

自分の日本の名刺には、あまり枠にとらわれない印象がある日本語として
造形家と表記させてもらっています。(これまた便宜上となるのでしょうけれど)
じっさい肩書など作品そのものにはまるで関係がないことなのですが、
この世に生まれてきた作品たちが
すこしでも滞りのない目でご覧いただけるよう配慮するのも
私の役割かなとも感じています。


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