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2018.10.16 Tuesday


今日は閉じこもって絵付け仕事。
こんな日は、ちょこちょこ面倒を見ながらの天然酵母のパン焼きにちょうどよい。

昨晩仕込んでおいたパン種を
朝昼ごはんにタイミングよく焼き上げることができました。
味噌汁とかおから和えとかにも合う、がっつりした旨味の濃いぃパンです*


久々にいただく焼きたてパンの幸せ・・。
(天然酵母パンの場合は冷めてから旨味をより感じるのでそれも好きなのですが)

ついでにおやつに、里芋のパウンドケーキを焼きました。
すりこぎでできる範囲内ですりつぶして生地に混ぜ入れたらふわっふわの出来上がり。
ひよこまめと豆乳ヨーグルトから作った天然酵母液を生地に入れ、
1日半ほど常温で発酵させて膨らませました。


天然酵母でケーキなど作るのは難しいなあ、と感じるのですが、
今回はお芋の効果か、ふわふわで成功と言えそう。
色々ほかの野菜や果物でも試してみたいところです。




昨晩スペインの友人から連絡があり、
息子さんがグルテンアレルギーを発症して入院したとのことで
病院からの連絡でした。

昨晩はさんざんその友人とメールで話していたのですが、
なんだか変です。

私のお米のアレルギーもそうですが、
お米も麦も、人類が長く食べ続けてきたもの。
なぜ急に近年になってそれらのアレルギーが増加するのでしょう。

先日地元の葉山で開催された「までいなマーケット」でも
今年は「麦」をテーマとして提唱されていましたが、
現代の農業に於いては品種改良のしすぎなのでは?という懸念が浮上してきます。
と同時に農薬と化学肥料の問題も見過ごせません。

アレルギーというのは、体が「これを体内に取り込んではいけない」と
なんとかして体外に排出しようとする、体の自然にとって正常かつ清浄な反応です。

アレルギーが出たのだとしたら、体の方ではなくその食材を検査するべき、
多くの人が拒否反応を示すのならば、
やはり普通に考えて食材がもう「食べるものではなくなっている」
と考えるべきでしょう。

グルテンフリーがただの流行で終わりませんように。


結局その友人の息子さんは、
腸の検査の結果(検査がすごく痛かったそうでお気の毒です)
腸は正常に働いているとのこと。
そのため強いアレルギー反応が出ている原因が
医者も分からなくなってしまったとのことで
今日は血液検査をするのだそうです。

・・・もういじくりまわすのはやめましょうよ、と
それを聞いてつい友人に言ってしまいました。
現代医療を私は全く信用していない旨も伝えて。
(スペインの医療は日本に比べてまだ自然治癒に頼るところがあるので
経験上スペインの医療の方が、
薬剤を売って利潤を上げようとする日本よりはまだましとは思うのですが。)
食はもちろん医療も含めてケミカル・不自然を避けて、
あとは基本的にほっとけば(余計なことをしなければ)
体は必ず治癒の方向にしか行かなのですから。
気功の考え方とともに、私の意見として話をしました。

大きく見て大地も、そして身近な自分の体も含めて
最低限自然の邪魔をしないということの大切さ、
「治療」という名でその邪魔をするケミカルの怖さをまた改めて感じたのでした。



パン作りに関連してときたま拝読しているブログの最新記事が
丁度同じようなテーマを扱われていました。

ベーカリーアドバイザーの部屋 より
「赤信号みんなで渡れば・・・」
http://sizuasa.blog44.fc2.com/blog-entry-555.html



2018.10.15 Monday

自分で守る

 
家族に、今日はごはん炊いたから食べてね、と言われて、
有機栽培ではないお米だけど少しなら、とお付き合いで食べたら七転八倒の苦しみ。
2年前のひどいお米のアレルギー症状がまた出た。

米袋を確認したらあの時に苦しんだのと同じ「ゆめぴりか」だった。
あの時と異なったのは、原因が今回ははっきりしているので、
1日で収まったこと。
2年前の時は、お米が原因とは知らずに、
おかゆを食べ続けた1週間ほどの間にどんどん悪化してしまって
本当に恐怖だったけれど、
対処療法ではなく原因を抑える事の大切さが身に染みる。

本当に懲りて、お付き合いで食べるは無いな、と思った。
はっきり断る事が大事。
何が原因で苦しんでいるのか、家族ですら本当にはわからない。
自分がその身にならなければ本当にはわからないのは道理だ。
医療に依存してる人も多い。
今回もし病院に行っていたら、医者によって色々とは思いつつも
やはり基本的に日本の利潤に傾いた、真の意味においては貧しい医療では、
もっと余計なこと(ケミカルなこと)をされていたと思う。
本当の原因も医者は分からないままに。
日本の医療と言うものの多くがそういう思考回路でマニュアル的に動いているのだから。

これは健康に、命に関わること、
当の本人でなければやはり本当にはわからないのだと実感した。
自分の体をまもれるのは自分しかいない。
自分の体のことをいちばんわかっているのは自分(=意識を排除した体の自然)なのだから。
そのために日常、感覚が鈍らないよう、研ぎ澄まされている状態で居ること。

今回の件以来、おせんべいを食べても鼻の粘膜から喉にかけて腫れてしまって(目も痒い)
ゆめぴりかに限らずお米の何かがアレルギーを引き起こしてしまうようになった。

今でも、完全有機栽培のお米だったら何も症状が出ないので、
やはりお米のアレルギーというより農薬やケミカルの添加物のアレルギーではないかと思う。

少なくとも自分で用意する食は、長期的に摂取して行ってもちゃんと自分の体が喜ぶもの(最低限ダメージを与えないもの)を用意したいと思う。

当たり前のことだけれど。



2年前、そして今年の6月と、体質がクリアになって
このような反応をおこして「摂取するべきではない」と教えてくれる
身近な自然(=自分の体)をありがたく感じています。

自然から学ぶことは多い。



2018.10.05 Friday

宮沢賢治の世界

 
「宮沢賢治の世界」と題して
6月末から7月にかけて小さな企画展をしたのだけれど
内容としてはよかったものの、色々な意味で展示としては大失敗に終わりました。。

失敗の原因として場所にそぐわなかった、というのが一番大きかったことと、
そしてこれも展示場所に寄るのかもしれませんが
意外と宮沢賢治が書いた作品を知らない方が多い、ということでした。
これは本当に意外だった。

ただ読むだけでなくその作品世界まで深く浸透していないと
まったくなんにも伝わらない展示になっていたと思います。
そういう意味では場所を選ぶ企画展だったなあと改めて思って居ます。



私の作品たちもそうですし、
世の多くの展覧会をご覧になっても同じことが言えると思うのですが、
作品をご覧になり、その方が受けたインスピレーション世界を
さらに作品をきっかけにそこから独自に心の内で深めていただくということが、
展示にお越しいただいてお楽しみいただけるひとつのコツかなあ、、と思います。

作品に向かい合うのではなく、
作品が見ているのと同じ方向を見てみる、ということが
展示にお越しくださった方のインスピレーションの世界で起こった時、
初めて視界が広がり心の中に見えてくるもの
(それは作品への理解を含むそのバックグラウンドに広がっているもの)があると感じます。

だから作品をご覧いただくのに感覚が研ぎ澄まされる
そういった「環境」と言うものも必要になってくるのかもしれません。

また、目の前の作品の意味を言葉で説明して、
それで観たような気持ちになっている、というのでは
本当に、、作品がこの界に顕れた何の意味もないかもしれません。

今後はそう言った展示ができるよう
展示環境が作れるよう
心がけたいと思う一つの良い経験となりました。



先月の鎌倉での企画展「言葉にならない絵付けの世界」では、
大きなアンティークの飾り棚いっぱいを利用して、
「宮沢賢治の世界」の作品一堂に会して再展示させていただいておりました。

おひとりで会場にお越しくださった舞台女優の方が
お帰り際に
『「宮沢賢治の世界」の作品、ほんとうに素敵・・・』と
非常に深みのあるお声で静かにご感想下さったことが
いま、豊かに心に響いています。


この鎌倉での企画展「言葉にならない絵付けの世界」について
以前のおぼえがきにも書かせていただいたのですが、
この展示が、器をつくることや発表形態として
大きな転機になったなあ、と改めて感じています。
今後、うつわの形はしていても
「ひとつのオブジェ」という認識での表現、
これを大事にして行ってよいのだ、と
お客さまからのそういったリクエストも心強く、
あの環境、及び、あの規模で展示をさせて頂けたことが
思った以上の大きな収穫となりました。
自分の役割がより明確になったと思います。
ありがたく思っています。



次回のギャラリーによる企画展示の会場は、
最寄駅は江ノ電の「腰越」もしくは「江ノ島」になります。
会場は凛とした趣を持つ素敵な環境。
作品を集中してゆっくりご覧頂けることと思います。

企画としてもテーマ性の顕れたものになります。

近日中に詳細をアップいたします。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。





よだかの宇宙・・・


2018.10.02 Tuesday

発酵

 
幸運なことにぺいすさんを知ってから、
食に関して(食だけではないのですが)私の内で大革命があり、
食=生き方だなあと心底感じます。

生命力は食そのものであることは当然ですが、
目に見えて生き方そのものが食に顕れていると顕著に感じるのです。



6月に前代未聞の3週間も寝込んでしまったわけですが、
その時の食を思い返すと本当に興味深くいまの学びになります。

ここおぼえがきにも書いていますが
あのときは調理したものが食べられませんでした。
オーガニックの果物のみ少しだけ食べることができました。
それ以外のもの、とくに調理したものを目にすると(たとえ自分で調理したものでも)
食べたい・食べたくない以前に気持ちががっかり落ち込んでしてしまうのです。
習慣的に調理してしまうのですがこれではだめだな、食べられない、と思いました。

毎日果物を少量食べ続けてましたが、
そのうちだんだんと生のキャベツや、季節のお野菜が
ぴかりとその命が光ってとても美味しそうに見えるようになりました。

有機栽培のキャベツはそのままぱりっと葉を手で割って、
調味料なしでスナック菓子のようにぽりぽり食べるのが一番おいしく、
とても気に入って、これは今でもこういう食べ方をしています。
生で食べたくなる美味しいキャベツであるという事が第一前提ですが。
疲弊していない野菜には調味料はいらないですね。。輝く命をそのままいただく。

感謝の気持ちが自然に湧きますし、ほんとうに美味しいのです。



一度こういうことがありました。
6月の体調不良がまだ完全に回復していない時に、
展示の搬出があって遠出をして、外食をすることになり、
町の中華屋さんでチャーハンを頂きました。
寝込んで以来、ひと月以上ぶりの外食です。

食べ終わって帰宅途中、とてもお腹が空いて来ました。
今たべたばかりなのに不思議です。
お腹は膨れています。
でもまったくエネルギーが足りていないと体が反応しているのです。
家に帰って冷蔵庫にあったキャベツをぽりぽりたべて
ようやくひと心地つきました。。

お腹が膨れても体に行き渡る栄養とエネルギーのない食だったら何の意味もない、
という事がよくわかった出来事でした。


本当にエネルギーのあるものを食べたら、
食事でもおやつでも同じことですが、
しばらく余韻があり満足感が続きます。
次々に食べる、という事は考えられません。


お茶とお菓子の関係も同じで、
すこしまえのおぼえがきにも書きました本当に美味しい
力のあるお煎茶を頂くようになってから感じるのですが、
本当に力のあるお茶をいただいていたらお菓子の役割はそのお茶の引き立て役で
量はいらなくて、お茶のそのものの力をいただくのが
とても楽しみになって来るものです。
お茶とお菓子に響き合うバランスがありそれが心地よく楽しいのに、
お菓子が主役になってしまうのは
お茶そのものに力がない、という判断で良いと思います。
そしてお菓子をたくさん食べてしまうのも
そのお菓子の原料に食材としての力がないという事でしょう。

調っている体はそのように感じるのだ、という事が
自分の経験を通して分かってきました。



6月以降、体調が回復しても、何かが足りないと感じていました。
「何か必要な食が欠けている」という直感です。
体調不良のときに、調理したものが食べられないと書きましたが、
唯一、天然酵母のパンだけは違いました。

この時は自分で焼く力がなかったので、近所のオーガニックスーパーに
ふらふらになりながら買いに行って居たのですが、
買ってきてぱりっと袋をあけると本当に香ばしく
「美味しそう」という気持ちが自然に湧いてくるような滋養のあるパンでした。

最近になってここおぼえがきにもよく書かせていただいていますが、
ぺいすさんの食事に出会って、、
これはもう食だけに関わらず人生そのものに関わる出会いでした。

特に食に関して今日は書こうと思いますが、
ぺいすさんの食事をいただいて無意識が反応し、やがて意識に上がってきたのが
「発酵」でした。
あのとき、天然酵母のパンだけが
生の野菜と果物以外で食べられた意味が分かったような気がしました。

これまた思い起こすと、
4年前にのたうちまわるようなお米の農薬によるアレルギー反応で
何も食べられずに日々やせ細っていったときにも、
自家製豆乳ヨーグルトだけは食べられることに気付き、そこから回復してゆきました。

*

「発酵」というキーワードを意識に挙げてから、
自分で作る食事が明らかに変わりました。
どーんと力のある柱がある様な食が作れるようになって、
「何か足りない」「欠けている」と感じていたものが満たされた感があります。

自家製天然酵母液
自家製豆乳ヨーグルト、と
ずい分前からすでに私の手元には材料が揃っていたのです。
それをようやくパンとヨーグルトの他にも活かせるようになりました。



食は生きることそのものです。

ぺいすさんに出会えてようやく「やっとここに辿り着けた」という思いがありました。
(ぺいすさんは私の理想郷です。)
そもそも、もし自分の目が覚めていない状態でここに来ても
猫に小判で終わったことでしょう。
2年に一度、「酷い体調不良」という形で本質的な学びを与えてくれてきた体の自然が、
そしてそれに先立って特別な食のお仕事を1年間に渡ってさせて頂いたことが、
いま私が居るこの場所へ連れてきてくれました。
全てのご縁に感謝です。

そしてまた自分の体の自然そのものは、真の師であり
ほんとうに有り難いと思って居ます。



今日のおやつに、ふわふわもちもちのパウンドケーキをつくりました。


すもも、柿、ブルーベリー、りんごをヨーグルト酵母に漬けこんで発酵させ、
発酵ヨーグルトと一緒に生地に練り込んだら噛みしめるごとに味わい深い(*^-^*)


2018.09.24 Monday

メモ


先日の鎌倉の展示で私の作風に関心を持ってくださったお客様が
『花だけの絵付けはないのですか?』とご質問されました。

つまり、動物が居なくて花だけの絵付けの作品・・。
まったくそういう視点が私の内には無いことに気づきました。

ここおぼえがきに何度も書いていますように、
向こうから訪れてきたものがまず最初に完成形として頭にイメージを浮かばせるので
それをそのままこの世に顕わしているのが私の絵付けです。

私が主ではなく訪れてくるものたちが主ですので、
その意味やモチーフを私が選ぶことはできませんし
そもそも花を描こうと思って花を描くというような作り方を
しようと思ったことがなかったのです。

そういう意味では、
木々や森が私を訪れることはありますが、
花が私を訪れたことは一度もないなあ、と気づきました。

役割が異なるのでしょうか。
興味深いことです。
自分の内にないものは描くことができません。
なぜなら訪れるものたちは「本当に生きているから」です。
それ以外のものは「表面的で、生きていないものを描く」ことになってしまいます。
そしてそれは私の役割ではないと感じます。
何のために地球の土や素材をおすそ分けいただいているのかと考えると、
自分の役割を離れていま任されているお勤めにそぐわないものを作り出すことは困難です。

上記のその同じお客様が、
『この釉薬でもっと大きな・・お抹茶茶碗サイズのがあったらいいのだけど』と
また別のお茶碗をしめしておっしゃっていたのですが、
その釉薬も自然からおすそ分けいただいていたもので
自然のものである以上いつも同じように機械的に作れるわけではなく、
現在は入手できない原料から作られている旨を説明させていただきました。


自然と言うもの、
そしてそこからのご縁により見せていただくもの、
さらには生き物としての直感というもの、
それによる繋がりと循環。
そういったものから切り離されて
架空のものを私はつくることができません。
突き詰めれば土というものがそもそもそういう質のものなのかもしれません。

そういった自分が居る「界」と「役割」の確認と言う意味でも、
色々なお客様と触れ合うことができる在廊のできる規模の大きな展示会、というのは
本当に貴重で興味深いものだった、、と思うのでした。



2018.09.09 Sunday

つれづれ 〜祓われ 調う

 
この夏はなんだかずいぶん暑かったですね。
スペインの友人から来たメールによるとあちらは冷夏だったようですが・・。

いつもは、陽が沈むと
家の目の前の山から冷気がふぁ〜っと降りてきて夜はすうっと涼しくなるのですが、
今年は夜になっても山の冷気が全く感じられず
まるでアスファルトの熱射が一晩中解けない都心部のような暑さで、
夜になっても気温が下がらないのはここに越して来て初めてのことでした。
生まれも育ちもこの町の地元のカフェのオーナーさん(60才代)に聞いても、
『こんな夏は初めて』とのことでした。

台風が立て続けにやってきて
一過した後もどんよりと滞りが解けず、
暑さに加えて酷い湿度、なにか滞った息苦しさもずっと残っていました。

極端な暑さで疲労感も続き、
自然の循環に乗って体調を回復させることも難しく感じました。
(エアコンはもっと体調がひどくなってしまうので使わなかったのですが)
私には本当に珍しいことに足がむくんでしまい
自然の気象とともに自分の体に異常と警戒を感じた夏でした。

この夏の暑さが来る直前、
6月に前代未聞の3週間の寝たきりになってしまいましたが、
きっちり3週間かけてすべて自然にまかせての毒だしを済ませていたのが
私にとっては不幸中の幸い。
すくなくともこの暑さを乗り切るための体の状態は、
(痩せてしまっていたとはいえ)その時の私にとって
出来る限りベストの状態に調っていたと感じます。
こんなに気象が過酷になるとは知らず6月の毒だしがもしなかったら・・と思うと怖い。
あの3週間の毒だしがあって本当によかった、と今になって思えます。

一番最近の大きな台風21号が来た時に、
なんというのか・・やっと自然の生命力を感じました。
というのもこの夏それまで立て続けに来ていた台風は、
何か無表情と言いますか無機的な感じがして恐かった。
龍がいない台風は初めて(こんなことってあるんだ)だと思いました。
そしてようやく自然の生命を感じる21号によってようやく祓われたと感じました。

この夏の台風には多くの方が、『台風一過してもカラッとしない』と感じていたようで
もしかしたらこういう所から、
現代人に足りなくなった自然の感覚が再び呼び覚まされているのかもしれません。



初夏〜今にかけて
この地球の自然の動きは自分の体調と密接に連動していることを
よくよく感じています。

昨日の例大祭は、去年はバイクで神社まで行ったのですが、
今年は交通規制があることを事前に知って、歩いて行きました。
歩いて行くことでいろいろな発見・気づいた事がありました。
これはまるで本当にサンティアゴの道を歩いた時と同じだなあと感じています。
歩くことで、あと一押しだった流れが、堰切ったように流れ動き出しました。
ようやく本当に体も調ったのでしょう。
裸足で長時間海辺を歩いたことも関係があるかもしれません。

例大祭から戻って来てから
自分の足の裏をなぜかよく見ているのですが、
足の裏の表情が脈打ち豊かになってきているのを感じます。
自分の足裏で気象現象の占いができるかも・笑
・・というくらい自然に連動し顕著に足裏に顕れているので
足裏を見るのが楽しいのです。

滞りも足裏から解けているので、今は気になるところに気功します。
コツは痛くしない事。
痛いというのはそれ以上するなという生命からの警告ですし、
波動が荒いものですからこれを無視せず、
ただ感覚を鋭くして静かな環境で、手のアンテナに頼ってマッサージをするようなものです。
何かを聞きながら、見ながら、はたまたツボの知識などは、
直感のじゃまになり、感覚が鈍りますので要注意です。繊細な波動に乗ります。
(波動・・便宜上この言葉を使いますが、
言葉で伝えようとするとやはり事実とはぶれるので難しいですね)
足裏気功。とても調子が良いです。
今になって京都の気功の学校の先生が『ツボの経絡の知識などは
なるべくお伝えしないようにしています』とおっしゃっていた意味がよく分かります。

ここ近年2年ごとに今までにないひどい体調崩しをしますが
毒だし=祓いだと感じます。(体が調おうとしているのがわかります)
祓いがあるごとに、気づくことがあり、
より善き心身をつくることに心を寄せ、
まず日常できることとして食べ物には本当に気を付けるようになっています。
やはり体は、もっというと心身は、食べ物でできている。
情報よりも自分の感覚に聞きます。
食べ物を手に入れたり、作ることに時間を割くことは
生きることそのもの。
当たり前のことですが。

お稲荷さんのお社があるとついお参りさせてもらいます。
トヨウケノオオカミ。
ウカノミタマノカミ。
もうずっとずっと以前からそこにいらしてて、
人々にその都度忘れないよう、気づくよう、うながされていたのだと思うと、
気づいてよかったと思うと同時に改めて驚嘆と畏怖とを感じます。
そしてまたそれとともにありがたく思います。

昨日も今日も抜けるような気の徴。
呼吸しているだけで心地が良い。
山からの風が涼しいです。
まともな暑さにもどり、汗のかき方も変わり、
ああ、やっと調ったと、ホッとする思いです。

滞り、恐し〜壊し(祓い)、調い、それを繰り返すのがこの地上かもしれません。
自らの心身含めて大自然の声を聞き、直感を鋭くして、
滞りが小さいうちに気づくことも、これからより大切になるかもしれませんね。


2018.09.04 Tuesday

経験の目


陶芸の体験施設で講師をしていた頃は、
ひと月に約1000個ほどの作品に出会っていた。

当時はとにかく扱う作品点数が多い為ただひたすら
お勤めさせてもらっていたのだけれど
今思うと、ひと月1000個もの作品に触れることができるというのは
非常に貴重な経験だったと思う。

知らず知らずのうちに作品をみただけで
その人となり、表面だけでなく内面の奥までもが
自然と見えてくるようにもなった。
加えて作者の言動に触れれば尚更。

7年半勤めてこの施設を退職してすぐに
アートセラピーに興味を持って勉強をしたことも、
この膨大な数の作品に触れてきたことと関係があるかもしれない。
アートセラピーでは、内面の表現には柔らかい素材、
とくに粘土が向いているとのことを知った。
なるほど、と実体験からも思わされた。

また人によっては「セラピー」という言葉に惑わされて
なにか心地よい癒しがあると思われるようだが、
実際には、自分の内面、隠しておいた滞り、しこりとなったものが明らかになり、
その上での浄化、本物の癒しを得る、
それがアートセラピーの神髄なのだということも学んだ。
そしてその隠しておいたものが
知らず知らずのうちに出てしまう、出やすい素材として粘土がある、ということだ。



いまでも作品を見るとぱっとそれを作った人の内面が見えてくる。
工業製品ではない「作品」というものはそういうもので、
また一口に内面、といっても、作った人に似ている作品もあれば、そうでないものもある。
ただ、似ているものもそうでないものも、全てにその理由、心の動きが顕れている。
無邪気な作品、
臆病な作品、
臆病と思われないように気を張った作品、
表面的に取り繕っているものもあれば、
内面を出そうという意図に失敗しているものもある。
中にはつたない技術の奥に、澄んだ深い静謐さが見えることもある。

瞬間的にそれを感じ取れるようになったのは、
やはりひと月約1000個の作品に、
それを作った人々に、
何年もの間触れてきた経験があるからだと思う。
この能力と学びは、最初からそうなろうと手に入れようとしたものではなく、
私の勤めと言う日々の中でいつのまにか手にした財産なのだなあ、とつくづく思う。



余談として、

いまでも作品を見るとぱっとそれを作った人の内面見えてくる、と上記したけれど、
縄文土器は興味深いとつくづく感じる。
内面的なものが現代人とかなり異なる。当たり前と言えば当たり前だけれど。

第一に満たされている。
意図することなく自然に添っている。
目に見えないものごとを敏感に感じている。
個が全て、全てが個 であるという事を知っている。

私の経験の目はそんなことを土器のつくりから感じ取る。
これだけで縄文時代と言うのは
非常に精神性が高い満たされた時代だったんだろうということが分かる。
個が宇宙の全て。
宇宙が個の全て。
最高の幸せではないですか。
それがよどみなく作られたものに顕れている。
だからこそ、日本の縄文時代はあんなにも長く続いたのでしょうね。





(上は國學院大學博物館「日本文化の淵源を求めて」企画展より。
撮影許可あっての写真になります)



2018.08.28 Tuesday

洗脳されてる

 
代替医療というレッテルを貼って
本当はいろいろな選択肢があることを排除して
商売が成り立つようにしている近代医療。
でも
本当は代替なのは近代医療の方で。
本当に治るのは、自然治癒でしかありえない。
近代医療は最低限その邪魔をしてはいけない。

癌治療の人の記事をつい今しがた読んだのだけれど、
医者が治してくれると思い込んでいたり、
選択肢が提示されたものしかないと思い込んでいたり、
見事に洗脳されている。

気功や整体の世界では、
子宮癌など自分で治してしまった人が数えきれないくらい、
私の身近にもいるけれど、
こちらの世界では癌は不治の病ではないし、
病気というのは癌だろうが何だろうがすべて同じで
自然治癒に基づいた体の毒出し。
(特に乳がんや子宮癌は、もともとが毒だしをしてくれる臓器なので、
余計なことをしなければ自然に毒が出て
自然体に戻りやすいように、身近な例から感じています。)
だから最低限、自然の体の働きの邪魔をしないことが大切。
なにが邪魔になるのか、というのは
きちんと自分の・自然の体の声を聞くことができるかにかかっている。

京都の気功の学校で学んだ際、先生からの言葉です。
『何か急いている人は、切ったり薬を飲んだりする事もあるのでしょう。
けれど忘れないでほしいのは、
本来体にとって不自然なものを取り入れているわけで、
それをまた時間をかけて体外に出し去るのは、
自分の体の自然の力でしかできないことです。』



日本人は特に検査や治療が好きだなあ、と思う。
日本の医療業界がそれで成り立っている以上、
魅力的な商品を並べて、
まるでそれが当然のことのように洗脳し、
販売しているわけです。

実際にはいまの医療はかなり混迷していると感じます。
混迷の原因は、医療業界の派閥や利害のように思えます。
特に日本の医療はその道じゃない道を進んでしまったと感じる。
迷い道を抜けるには、かなり元に引き返さないとならないようです。

ひと口に西洋医療というけれど、
もはや西洋の医療の方がよほど
自然治癒を信頼した上でのアドバイスを医者がするので
医者の診断の個人差は多少あるにしても薬などよほどでない限り処方されない。
スペインでは少なくともそうで、
またドイツにご縁がある親しい友人も同じことを言っていた。

選択肢はいくらでもあるし、
医者に行って治してもらう、という意識が働いている以上
自然治癒力が稼働しずらい状況にある、といっても過言ではないでしょう。
たとえ気功や整体でも、
現代医療の病院の先生にかかるような気持ちでいたら
『対処療法となんらかわりない。』(これも気功の先生の言ですが)
つまり、本当のあなたの体の自然が持っている力での治癒力は格段に落ちる、
ということです。

治してもらう、のではなく、自分が自然の循環のなかで信じて、、いや
信じる、ということももはや無意識で、
心地のよいほうに流れて行けばいいだけ。
赤ちゃんなら簡単にできることです。
だから気功では赤ちゃんがお手本です。

気功の学校で一番最初に私が受けた印象は、
『ここはまるで大人の幼稚園のようだな。』というものでした。
当たらずとも遠からず、と思っています。
治療するのではなく、
人生の全て、生き方のことでしかなく、
そして傷や病気といわれるものは、
本物の自然の中では癒され、治るしかないのです。

余計な知識、意識、情報は、本物の自然には邪魔なだけです。
本物の自然かどうかの判断基準は、
"この地上の生き物にとって『自然か、不自然か』"。
最初から最後までただそれだけです。


2018.08.26 Sunday

ひとつの道具

 
古神道の勉強をはじめたばかりの頃、
なぜお金というものが存在するのだろう?という疑問が湧いた。

神社にお賽銭箱がある。
古神道に於いてのお金って何だろう?と。



お金は鏡であり、道具である。

拝殿の奥に鏡が奉られている。
鏡が自分の姿を映すように
お金という道具の使い方はそのままその人そのものを顕す。
100万円のお賽銭を納める方は、
100万円分の業を負っているのかもしれません。
そのままその人の生き方をも映してる。

お金はそもそも最初からその人のものではなく、
そもそも自分のものではないのだから巡って自分の手元に来た時には
神様に『善きことにお使いください。』と神棚にまず挙げてお渡しする。

撤下されたお金という道具は、
神様の前に『善きことにお使いください。』という祈りのこもった道具ですから、
それを忘れずに適した時に使わせて頂けば良いのだと、
そしてその道具を使う姿の顕れそのままが自分自身そのままなのだと、
そのような理解が降りてきました。


2018.08.22 Wednesday

好き嫌い

 
親しい方たちとの食の好き嫌いのお話しが興味深いなと思う。

意外なものが嫌いだったり。
味ではなく記憶に結び付く好き嫌い。
色や見た目の先入観による好き嫌い。

過去、陶芸教室に来られる親子さんで、
『甘いお菓子を食べない。』というお子様も多かった。
小麦粉や砂糖等のアレルギーがあるという場合は別として
そもそも特に甘いものを好まない、とおっしゃいます。

思うに私が子供のころはまだ戦後の影響が強く、
砂糖を使った甘いものは貴重品・高級品という親世代に育てられていることもあり、
たとえばケーキなどは初めから”特別なもの”として刷り込まれました。
味よりも意識が『おいしいもの』と思いこませていたように感じます。

ケーキよりもおせんべいが好き、というお子さんをみていると
もとからケーキが特別なものではなく、
今はもっと食に対してフラットに感じ取れる時代のようにも思われるのでした。
情報や先入観による意識の排除がなされているというほんの一つの事象として、
これは間食をとるにあたって「自分の体の声を聞く」という最初の段階で
とても良い事のように思えます。




今回、壁画制作中の葉っぱ小屋さんにおじゃまして
食の好き嫌い談義に花が咲いてしまいました*


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