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2017.10.09 Monday

自然の循環とのかい離

 


お膳立ててどうのこうのというまえに、
地球から発したものはきちんと地球に還してやって処理しましょう。
最初から、地球への帰還〜いらなくなったものの処理、を含めての研究、調査でありましょう。
電子レンジから原発そして宇宙に出てまで科学のすることは今や病的で稚拙。
科学も本来は神に近づくための手段だったのに、どこかで勘違い。

2011年の原発事故の直後にある学者が
「原発なんて同じ原理なんだから太陽に捨てればいい。」と言った言葉にぞっとした。

もうこれ以上地球を恥ずかしい星にしないでほしい。

(「地球から外のことを考えるな」という古い神道の戒めは
実は時空を超えて現代の科学者に対するものだったのかも。。)



2017.09.13 Wednesday

あたりまえのことをあたりまえとして



今朝、友人から、
「シャンプーや洗剤の臭いで体調を崩す人が増えていて、
それを化学物質過敏症という。」という話をラジオで話していた
という話題がメールで来ました。

その番組では
「そういう人はクリニックに行ってください。」と締めくくっていたという。

友人曰く、
違うでしょ「ケミカルな添加物を減らしましょう。」でしょう。
その番組に疑問を持った、と。

同感です。



畑の農薬も、食品添加物も、
結局そういった薬品をつくっている会社を儲からせるために使っている。
本来いらないもの。

だいぶん前、シリコン入りシャンプーが大流行した時に、
「私はシリコンは髪質にあってるみたいで問題ない。」と言っていた知人は、
いまは髪がやせ細ってしまい、見るからにバサバサになってしまって悩んでいる。
シリコン入りシャンプーのデメリットが一般に広まるようになった今、
こんどは「ノンシリコン」と銘打ったシャンプーが売れるようになる。。

髪の毛は目に見えるけれど、
内臓は見えないから、無頓着になってしまうのでしょうか。

私も合成の香料で体調を崩します。
合成洗剤で洗ったシーツでは臭いが刺さるようにきつくて眠れないですし、
他人が合成シャンプーの臭いをぷんぷんさせている場に居なければならないのも苦痛です。

こういう状況を、病院で治せ、という発想が恐ろしい。

ちなみにどんな治療をされるのか、と思って調べてみたら、
具体的な治療というよりも、
ストレスのない生活をすること、
無添加の食品を食べるようにすること、
などなど。

なあんだ。
これって医者が個人に課することではなく、
ストレスのない社会にすること、
無添加の食品が一般的になるような流通にすること、
という意識が、医者を含めてこの国全体の中にもなければ。。。
。。。というところも大事でしょう。ほんとは。

家の近所のオーガニック系カフェのお姉さんは、
『普通の農家なんて、ぜんぜんオーガニックとか考えてないから!』と断言。
実際、オーガニック農法をしようとして、
いわゆる一般的な農薬や化学肥料を使っている農法の農家さんから妨害、
いじめをされたという話も知り合いから具体的に聞きます。

農薬や化学肥料を使った原材料にまた薬品添加物を入れる、
なんてことが日本では日常の中に浸透してしまっています。
それが大きな会社には利益になるから。



去年6月に人生初のひどい体調崩しをしたことを少し前のブログに書きましたが、
あの翌月、展示でスペインに行くことになっていて
行く前は、かなり体調を心配していました。

しかしながら、スペインの食事はまともだった。
窯元の田舎の町という事もあって、
産みたての卵、
さっき畑でとってきた自家農園の野菜や果物、
夜中の12時からパン粉をこねて発酵させ、ちょうど朝に焼きあがったばかりの素朴なパン、
ジュースみたいにそのまま飲める新鮮なオリーブオイル、
添加物の一切無い生ハムやチーズ。。

こういう当たり前の食事ですごした3週間のスペイン滞在。
すっかり私の体は元気ぴちぴちになりました。
やはり食は体そのもの。

驚いたのは帰国後、
外食をしたときの油の重さ。味の希薄さ。
一口であれこんなに不味かったっけ?と思い、そして食後の胃の鈍痛。
幾度か訪れておいしいと思っていたイタリアンレストランでしたが、
もう行くことはないでしょう。

人の体は添加物を摂取していても、
完全オーガニック食で1週間過ごすと、
体内の添加物薬品がほとんど抜けている、というデータがあるようです。
そのくらい体の浄化力が強いと。
常にどこか具合が悪い、重い、というのであれば
まず食べ物を疑うのが道理です。
医者に行ったり薬を飲むのではなく、
いわば食そのものが人にとってのほんとうの薬です。



体調が悪く回復途中の状態でスペインに行っていたことを、
帰国後に会った友人が心配してくれていたので、
『スペインの食のおかげですっかり元気になった』と、
上記したように詳しく話したら、
『そうなんだ。スペイン人が食材に気を使ってるイメージないのにね〜。』と言う。
私は、「どういう意味だろう?」と、
友人の言ってる意味がよく呑み込めず答えあぐねていると
もう一度
『スペイン人が食に気を使ってるイメージないよね。』と重ねて言う。

あとでよくよく考えてみたら、
そもそもスペイン人は、あたりまえのものをあたりまえに食べているだけであって、
別に何にも「気をつかって」などいない。
私が滞在していたスペインの町には当たり前の食べ物しかないから。

それだけ日本人が、添加物だらけの中に居て、
あたりまえのものすら気を使わないと食べられなくなっているのだ、
日本ではあたりまえのことがもはやあたりまえと感じられなくなっているのだ
と、その友人の発言から思いあたり、なんともショックでした。

もしかしたら化学物質過敏症などというものはなくて、
日本の「普通」といわれる多くの人の感覚機能・排出機能が、
摂取し続ける薬品により昔よりも鈍ってしまって居るだけなのかもしれません。



去年スペインから帰ってくるとき飛行機の窓から。




2017.08.24 Thursday

学ぶ

 
最新の世界の平均寿命がWHOで発表されたのを見ましたが、
気になるスペインと日本。
平均寿命ほとんど変わらないんですね。

スペイン人の知り合いのなかで、
大人がわざわざ健康診断など受けたという話は聞いたことがありません。
友人の子供たちを見ていると幼児の検診はあるみたいですが、
(友人の子の3歳児検診について行ったことがあります。)
大人が自覚症状が何もないのに健康な時にわざわざ検査のために(健康診断含む)
病院にはいきませんし、予防接種の話も聞いたことがありません。

国が何に視点を向けて何に重きを置いているか、
何で利益を得ようとしているか、
それによって国民教育も異なってくるのだなあと感じました。
スペインなどに比べると。
日本は医療依存になるような教育がかなり徹底しているように見えます。

ちなみにスペインの公立病院での医療費は
風邪だろうと癌だろうと100%保険でまかなわれますので
病院でお金を払う、というシステムはありません。
そしてまた日本よりはるかに自然治癒力を意識的に取り入れている医者が多いです。
やたらと薬を出されたり、余計な治療をされないというのは安心感があります。



最近みつけて、興味を持って読んでいるブログがあるのですが、
(いそちゃん日記 http://organic-ya.com/isoji
『身体は食べ物で作られているのだから、薬で治るわけがない。』
という内容が書かれていて、そりゃそうだよね。と共感然り。
癌も風邪も同じシステムの浄化作用なのだから
そもそもカテゴライズして病名を付ける必要もない。
風邪も癌もそれ自体が体が行っている治癒なのだから叩く必要もないという発想も
気功と全くおんなじで、よくわかる。

間違った化学療法で、体の自然治癒力(浄化)をさまたげ、
自然界にない不自然な薬で更に血液や体液を汚し身体の負担を増やしている。
『どうしたって体は治る方向にしか行かないわけで、
その全勢力でもって治癒している自分の体の、最低限邪魔をしないという事が大事』
とは、私が学んだ京都の気功の学校の先生が言っていた言葉。
もっと自分の体を信じてよいのだと思います。
もっと個人個人が自分の体の声を聞くべきです。

現代医療の歴史を見れば、いまの治療がいかに危ういものかがよくわかります。
一番よく治るから、という理由でその治療法があるのではなく、
●●先生の派閥が強いから、ほんとうは○○先生の結果の方が良いのだけど、
最終的に●●先生の治療法が主流になりました、と。こんな具合。
癌治療の歴史などの本を見ているとこんな流れが見えてきます。
ものすごく人為的な派閥の、狭い中で現代医療の治療法というものは
確立されているのですね。

今現在でいえば、子宮頸がんの予防接種然り。
少し前に騒がれた小保方さんの一件も然りです。(と私は思います)


生命に直接かかわるようなもっとも大切なことを
人任せにしてしまうなんて、怖いことです。
おかしな利益に流され、
おかしなシステムに流された感のある、特に今の日本の医療について
ひとりひとりがよく考えることが大事です。
身体は自然から預かっているものですから、
「自然か不自然か」というのが一番大切な目安になります。

重篤で入院し、奇跡の生還をした友人が曰く、
『結局病院は根本的に治すということは何もしてなくて(できなくて)、
自分の体が治すだけだということがよく分かった。』
針一本を体に刺すということがいかに大きな体の負担になるかということで
その病院ではどんなに痛くとも痛み止めの注射などされなかった、とのこと。
ちゃんと体の治癒力を妨げない、よい病院でよい担当医でしたね。
ケミカルで余計な事をされなくてよかった。



もっと私的で日常的な話にします。

先日、都内に一日出て帰ってきたとき、
髪がタールみたいなものでもかぶったかのように不自然なべたつきがあり、
(都内にでると、髪がそういう風になることが多いです)
そんなときは、いつもは使わないシャンプーを100倍くらいに薄めて洗うのですが、
その日はたまたまそのシャンプーが切れていたので、
風呂場にあった家族用シャンプーを100倍に薄めて使いました。

そうしたらびっくり。
髪がもっとべとべとに。異常です。
タールを塗った以上のべとべと感にびっくりです。
べとべとのなかに水分が包まれていて、髪がいつまでたっても乾かない。
そして、合成香料のくどい香り。。気持ちが悪い。

何度も何度もお湯で洗い流しましたが匂いもべとべとも落ちません。
合成香料の香りは翌日になっても取れませんでした。
また翌日は髪の毛もごぞっと沢山抜けました。。なんだか怖い。


いまは基本的に普段髪の毛はお湯で洗っていて、
週に1回くらいヘナとシカカイという植物を挽いた粉で洗うのですが、
昔、それまでの合成シャンプーをやめてお湯洗に切り替えた始めたばかりの頃は、
髪が異常にべたついて仕方ありませんでした。
このべたつきは今まで使ってきた合成シャンプーの蓄積の仕業だという事を思い、
そこでめげずに頑張って5年ほどかけて、やっと完全にシャンプーの毒が抜けたところで、
お湯だけで洗っても問題のない髪になりました。べとべとにもぱさぱさにもならず、
ちょうどいい感じに気持ちよくなってくれるようになりました。

シャンプーの毒が抜けて、やっと元に戻ってくれたと思った矢先、今回の失態。
馬鹿なことをしました。
これまでの5年間でやっと自然にもどした髪が、
たった1回の、しかも100倍に薄めた合成シャンプーで
一瞬にして台無しになりました。
髪がごっそり抜けるって相当な毒ではないですか?
しかも100倍に薄めたものなのに。

化学物質による自然破壊の図ってこういうことなのかもしれない。

自然界でシンプルに循環していたものを、
人工的・科学的なものが、まるで暴力を振るうようにしてその循環を
めちゃくちゃにこわしてしまう。
洗髪も
病気の治療も
自然破壊も
全部同じこと。

これからまた5年かけてもいいので、お湯だけで洗える髪にもどします。
今回たった1回だけのケミカルシャンプーの使用による破壊だったので、
5年よりもっと早く戻ってくれることを正直期待していますが、
しかし、壊されるときは一瞬で、自然に戻るときって、ゆっくりで時間がかかるものです。

シャンプーの仕方ひとつとっても
それはその人の生き方で、
いろいろ痛い目にあってようやく本当に学びます。。


2017.07.05 Wednesday

作風

ときどき、
『これもMAJOさんが作ったの?』と
なかば驚かれることもあるのだけれど、
何処かから私の元へ、
顕してほしい、とやって来たものを
できるだけ自然にそのまま顕しているので
そこに私の意志ははたらいてないから、ということと、
あとは、今までつくり出してきたものに対して私の中にこだわりとか執着がないからでしょう。


2017.06.20 Tuesday

繊細な大地から


昨日の夕方いつものように浜辺を歩いていたら
なにかいつもとは違う力を大地から感じた。
ただただ歩いているだけでみるみる体が緩んでいく。
あまりに心地が良いのでどんどん歩く。
明日も来よう。
浜辺を歩きたい、と自然に思った。

なぜこんなに大地からうけとる力のようなものが心地よいのだろう。
なにかあるのかなあ。
夏至がちかづいているからかなあ。
古代の人が、夏至のような特別な節々を
重要だととらえていた感覚の鋭さを改めて思ったりしていた。

毎日自然に沿って同じ行動を繰り返していることで
目に見えない自然の変化にきがつく。
これは都会ではなかなか得られづらい感覚ではないかとも思った。


私は今までの人生のほとんどを東京で過ごしていたけれど、
かなり多くのことに対してシャットアウトしたり
ガードしたり、見過ごしていた、ということに最近気づく。
こうやって感覚を鈍くしなければ、毎日地下鉄にすら乗れないような場所だったから。

いまはここに越してきて、
自分を自然のなかに活かす方法が分かってきている。
山や海が、天や大地が毎日教えてくれる。


実験で、オーガニックの野菜を1週間食べ続けると、
体の中の科学毒素がほとんど抜けていた、という結果があるらしい。
ことの真実の詳細は私にはわからないけれど、
ただいえるのは、
どんなに疲弊した都会の中で生活していても、
人間は自然環境の中に置かれると、
いとも簡単に還ることができる、ということ。
人間はすべて、本来自然に属す生き物だから。
この大地の子供だから。

気功をしていると、
ケミカルな病院で重病と診断されていた人が、
状態がよくなっていくというのを目の当たりにするけれど、
これも同じ原理ではないかと感じている。
自然のなかに循環している気を流して
体を本来の自然の一部に戻すようにうながせば、
そのように体はひとりでに戻ってゆく。
自分の体が自分で勝手に自然の中に戻っていく。
自然の力の前では、
いかに最前線といわれようともケミカルな治療が
いかに雑で稚拙なものかがよくわかる。

気功もそうだけど自然の循環の中に体を還すことで重要なのは、
こうすれば治るとか、誰かに治してもらう、という依存心を完全になくすことと、
理論や経験値・固定概念をすべて捨てて、
ただただ赤ちゃんのように自然の中にいられること。
大人になるとこれがなかなか難しいという場合は、
ひとつのコツとして「数を数えるのをやめる」といいと思う。
とにかく時間を計ったり、数を数えるのをやめる、というのが、
エンドレスな都会的悪循環から抜けだし、自然に還る手段のひとつになる。


2017.04.29 Saturday

ノアの方舟

 
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、
代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。
これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、
すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。
水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。

雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、
神と地上のすべての生き物、
すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
(旧約聖書 創世記)


神が約束を立てたものを、
人の側が忘れてしまってはいけませんね。
(忘れられた約束はどうなるのでしょう。)

今日東京で見事な虹が出ていたそうです。
都心に七色の光「虹」あらわれる
(日本気象協会 tenki.jpサイトより)

今、この現代の私には、
神が「このときの約束を思い出せ」と人々に示しているかのように見えました。

美しい虹の姿にハッとさせられて、
直感を鋭く、を一番に、日常を過ごしたいと改めて思いました。






2017.04.05 Wednesday

テストアレルギー

 
他人からの評価について、
少し前のおぼえがきに書かせてもらいましたが、
学生時代は深刻なアレルギーと言って良い程のテスト嫌いでした。

学校を卒業してからも、
「他人からの評価=テスト」という深く心に刻まれた傷は残り、
テストを受けるリアルな夢を何度も何度も繰り返し見ては
苦しい目覚めを迎えていました。
学生という長い期間、テストというものの繰り返しにより、
もともと自分が大好きだったことが失われてゆきました。

あまりに傷が深いのか、
たとえ必要とされるような事でも、
テストという方法で他人から何か調査されたり評価されたりすることに
ストレスと苦痛を感じるのです。
たとえば、
陶芸の仕事を始めたころ
もう学校は卒業してすべてのテストから解放されたと思っていたのに、
仕事のため仕方なく運転免許取得に教習所へ通ったことも非常に苦痛で、
ストレスにより教習所通学中ずっと体調を壊していました。

スペインに住んでからしばらくも
高校時代の夢を見たりして混乱するときもありましたが、
ようやくじょじょに薄れていったように思います。

スペインでの田舎の暮らしは、紙の上での評価はなくて、
目の前にいる人を見て、その人のやっていることを見て、
その人と直接コミュニケーションをとる、という
時間のかかる非合理的な社会でした。

それが私には素晴らしかった。

スペインでそういう生き方が現実にあると知り、
私の内で、学生時代に失われた大好きだったことが蘇りました。
揺るぐことのない根源的な力をもらいました。
紙の上の合理的な評価や力量ではなく、
命から湧き出るエネルギーに繋がるものです。

一度頂いた命のエネルギーは、
日本へ戻って来ても決して消えることはありませんでした。
そしてこのエネルギーに基づく直感も鋭くなっていました。

ある日、
数十年の間ながらく聞いたことがなかった質問を、
日本のアートと呼ばれる企業的活動に関わる人からされました。
「あなたはどこの大学でてるんだっけ?」
これがこの人の、貧しさ。
それは今の日本社会の、貧しさでもある。

それでもそういった貧しい質問に頼るような人が救われるチャンスはあると思います。
その救いの手助けを私がするように促されたことも実際にあります。
そして実際に手助けとなる事に関わらせて頂いた時、わかったことは、
私は手助けはできるけれど、
最終的に本人が気づき変わらなければ何も変わらない。
本人が、それがこの人生で最後のチャンスかもしれない、と気づいていなければ
何にもなりません。


私のテストアレルギーというのは
本質を見ようとしない人々と関わって生きて行かなければならない社会に対するアレルギー
だったのだと今では思います。

沢山の人がほんとうは不自由な思いをしていると思います。
世界はもっと広く深いこと、
頭で考えずに、
自分が本当に心から学びそして選べば、
他人の行う合理的な・表面的な評価などまったく関係なく、
大地ととも豊かに命を養い生きることができると、いまでは知っています。




2017.02.08 Wednesday

メモ





船は港にいる時、最も安全であるが、
それは船が作られた目的ではない。
       パウロ・コエーリョ





今の日常に続くサンティアゴの巡礼道を、私が歩くきっかけとなったのは
パウロ・コエーリョ氏のノンフィクション作品「星の巡礼」を読んだこと。
こんな不思議な道があるのならいつか歩いてみたいと思った。

そしてその後、はからずもスペインに住むことになり
住んでいる間に歩こうと思った。

実際に巡礼を終えて
「星の巡礼」を再読してみたら
もう自分はこの本の住人になることはなかった。
私の中に私自身の「星の巡礼」が息づいて
私の現実として歩きだしていたから。

Cuando termia el camino del Santiago,
empieza tu autentico camino.
(サンティアゴの巡礼道が終わったときに、
あなたのほんとうの道が始まるの)
これは、
私が巡礼道の小さな町で霧に煙る道で迷っていた時に出会った
白装束のおばあさんに言われた言葉。

それから私はスペインの陶芸の町で暮らしつづけ、
また日本に帰国し、
月日が流れた。

あれからもうずいぶん長いこと待って、
なかなか邦訳されなかったパウロ氏の「巡礼者の告白」が刊行された。

この本は、フアン・アリアスという記者が、
細心の心配りのもとでパウロ氏へ行ったインタビューをまとめたもの。
強制収容所へ入れられたという経験をパウロ氏が持っていたことを知り
そしてそれが彼の心の奥深くに根をおろしていることを初めて知った。

崩壊した自らの日常を立て直すことを決めた瞬間のこと。

この本は氏のことが書かれた本のなかでも
私にとってとても大切なものとなった。



ある人と今読んでいる本の話題になって、
私はこの「巡礼者の告白」にとても心惹かれていることを話した。

その知人も私の話から興味を持って、読んでみたい、と言った。

その後しばらくして、その知人に会った時、
曰く、
「あの本、アマゾンで検索したけど、あまり評価高くないよね。」
だから興味がなくなった、と。

評価?
私にはわからない。

***


評価という言葉に続けて書く。

スペイン語のスキルアップなどのために
なになに検定受験というようなものには私は全く興味がない。
実際に必要なスペイン語と、
受験のノウハウの勉強は全く別物だとも思うし。
それよりも先に必要なものが
もうすでに目の前に起きているということもある。
受験に費やす時間より、目の前の目的そのものに向かう。

もちろん、
大きな国際機関で仕事をすることで実現したい目的がある、
その目的のためにTOEFLである程度の数字を出す必要がある、
というのであればわかる。
この場合、
検定を受けるのも、国連に入るのも、
それに合格することが目的なのではなく、
例えば下層民の生活や労働を保証するなどの目的実現のための、
それらはただのツールである。
そういうことならばよくわかる。

けれど
合格することそのものが目的になっている検定などの受験に
何の意味があるのかわからない。
他人からの評価が、それが目的になってしまっているのは、
私はやはり何か不健全さを感じる。
語学を何のために使うのか、
本来のその国のことばを使うことの目的は?
他人の評価を上げることに一生懸命になり、
目的を見失っている。

これとまったく同じように
サンティアゴの巡礼道を何度も歩く人を見ていると、
どうしても無限ループにはまり込んだ迷える魂が見えてきてしまう。
本人もそれと気づかずに、
自分が何度も歩いたことや、
その手段など経験を積んでいるとの
人からの高評価を期待する姿。
そこに縛られ、抜け出せないでいる姿。

サンティアゴの巡礼道は人生そのもの。
他人の評価を気にしていれば自分を見失う。
魂の希望を見失う。

ただ一つ言えるのは、
個人個人が自らの内でもっと強くこの大地そのものと結びついていれば
そんな事にはならない。
大地は気づかれることをいつも待っている。
1度で気づかなければ、何度でも気づくまで現れる。現れている。






2017.02.07 Tuesday

失われたもの

  
先月、10年以上愛用してきたパソコンが突然壊れてしまった。
中古で手に入れたものだったので実際にはもっと長年使用されていた。

そのパソコンの中にはこの10年の蓄積の色々なデータが入っていて、
膨大な数の写真も入っていたのだけど、
けれどなくなってみると何が入っていたのかあまりよく思い出せない。

デジタルになってから、
写真をたくさん気兼ねなく撮るようにはなったけれど、
フィルムで撮って印画紙に焼いてもらっていた時代に比べると、
撮った写真を見かえすことはずっと少なくなってしまった。
古びた紙のにおいとともに昔のアルバムをめくる楽しみ、
というのも日常の中からすっかりなくなってしまった。
(デジタル時代になる前の古いアルバムは、
 今だに見かえしたりするのですが。)

気づかないうちに写真というものの役割が
何かだいぶん変わってしまったのかもしれない。

***

住所録も壊れたパソコンの中に入れていたので、
今月14日から始まる二人展「in to the wood」のDMをお出ししたのが、
いままでの名簿からの最後のご案内になってしまいました。

こちらはバッドタイミングなことに、
ちょうど名簿を整理した直後のクラッシュだったもので、
バックアップもとっておらず、顧客名簿というものがなくなってしまいました。

でもこれはこれで次へと向かおうと思います。
ここおぼえがきにもしばしば書いておりますが、
作品の質のようなものがここのところ変わってきておりますので、
お客様の作品に対するご見解のようなものも変わってきているのを感じ、
名簿も新たにした方がよいのかもしれません。

次の展示「in to the wood」におこし頂けますようでしたら、
会場に芳名帳を置いてますので、
今後の展示開催のご案内のDMをご希望の方には、
お手数をおかけいたしますが、ぜひご芳名をお願い致します。

次回からは、「in to the wood」展にご芳名頂きましたお名前より、
お客様の名簿を作りなおしたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。




14、16、17、19日は在廊しています。


***

追記。

引っ越ししてしまった友人や
ここ数か月以内にメールアドレスが変わってしまった友人の
データもすべて消えてしまったので、
中には完全に連絡が取れなくなってしまった人もいる。
こういう事ってあるのだなあ。。
何もかもデジタルに頼って、
人と二度と連絡が取れないかもしれない、という状態になる事が。

ただ実際には、
親しい友人関係は年賀状があるので手紙での連絡はとれる。
やはり紙媒体は強いなぁと。
このような事が起きて、
年賀状のあたたかさと大切さを今更乍らしみじみ感じるのでした。。




2017.01.20 Friday

アートと芸術

 
お寺のお坊さんで且つアーティストの方って意外と多い感じがしています。
これは友人からきいたお話。
あるお寺の尼さんがアーティストとしての活動もされていて、曰く、
『アート活動をしたいと言う自分のエゴの為に周りの人に迷惑をかけている。
もうアートは止めようと思う』という決心をされた、と。

このお話を聞いて『?』と思ってしまった。
この方のアートって芸術っていったい本物なの?と。
この尼さんはアートはエゴといっているように、
作品は自分の物だと思っているのかな?

私はある時、
「芸術」というのはイコール「純魄(じゅんぱく)の祈り」だと気づきました。
アルタミラやラスコーの壁画然り。
原始美術がすべて宗教画や像であるという事もとてもわかりやすい祈りの顕し。

宗教という形をとっていなくても、
熟練した職人がつくるものや、
子供が描く絵、
主婦の趣味の絵画のなかに、
純魄の祈りが宿っていたらそれは芸術なのかもしれません。

逆に、純魄の祈りに届いてしまったら、
人の意思でそうそう簡単に
芸術を辞めることなんて出来ないのではないでしょうか。
その人は役割を果たさなければならないのですから。

芸術というものをつきつめてゆくと純魄の祈りが残る。
逆にそこにそういった祈りの宿っていないものは芸術ではないと感じます。

そういう目で見ると、
上記の尼さんのしていた事は本当に芸術だったのかな、と疑問が湧きます。
明確に言える事は、
彼女は芸術と宗教を頭で考えて分離させて、
尚かつ芸術は宗教より下というランクづけしているのでしょうね。


追記:
私はあえて「芸術」という言葉を使いましたが、
これは私の経験上からの印象なのだけれど、
日本語の「アート」は「芸術」の対訳ではないように感じます。
一般的に「アート」を掲げて目につく活動をしているのは、
お金儲け目的のニオイがします。
日本語では「アート」と「芸術」では目的が全く別のものとして
使われることが多々在るように感じています。



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