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2019.01.23 Wednesday

土に還る

 
スペイン帰国以来ずっと作品を見てきてくださっている方からうれしいメールをいただきました。とても理解が深く、私自身ハッとすることもあり感激しましたので、
ご本人の許可をいただきそのまま転載させてもらいますね。


『縄文土器が成熟するにしたがってどんどん実用性とは異なる表現のほうに、
もちろん土台は器とか甑でご飯も炊けたりするんだけど。
それ…使いづらいよねって方向に
しかも大地のうねる鼓動が聞こえるような表現のほうにどんどんよっていくのが、
MAJOさんの作品が器から離れて器は表現の土台で器じゃなくてもいいんだけど
器に描くのが表現として良し。とか
別に鍋じゃなくていい、フタだけで良し。でも鍋でもいいよ、とかいう方向に変化してるのが
縄文土器とおんなじだなあって思ったんだ
それで土と本当に関わっていくとこの方向にいきたくなるよなあって感じたよ。
縄文展で最後のフロアに世界各国の古代の土器が展示されてたんだけど
西洋は…というか他の地域もみな
初期から成熟に至ると初めは装飾も見られたのにどんどんシンプルかつ使いやすく
合理的なデザインになり、もう器や調理器そのものでしかなくなっていったのが面白かったよ。
使いづらい方向に、でも土の力がどんどん高まる方向に進化してるのは日本の縄文土器だけだった
自分たちは本当に豊かな国にいるなあって思ったよ』



縄文土器は、道具としての狭い視野での器を超え、
土とそれにまつわる自然のすべての力を内包したもので、
それで食にかかわる煮炊きをすること自体ものすごいエネルギーを
発するのではないかと感じます。

このメールをいただいて、
この宇宙、惑星、自然とのさらに一体感を極めたものを作りたいと強く思いました。



これまで詩と陶のコラボレーションでご協力いただいているアントニオD.L.氏が
アルハンブラ宮殿を例に挙げて、文化が極まると装飾文化も極まる、
というようなことを言われていましたが、
スペインにおけるイスラム王国(アルアンダルース)の終焉地に建てられた
アルハンブラ宮殿のめまいがするような宇宙的な緻密な装飾にも
縄文文化に通じる高い精神性を感じます。

日本が特殊なのは、その縄文文化が外的圧力により寸断されていないということでしょうか。(縄文から弥生へは長い年月をかけて緩やかに変化した、という説を私はとります。)

スペインの陶芸の町に住んでいたとき
そこの陶芸美術館で、
日本のような歴史の流れの中で時代による緩やかな変化ではなく、
たった数百年の間でみても
その時代時代によって制圧したよその国の文化がいきなり入ってくるので
それまでの文化がぷっつり途切れ全く異質のものにとってかわるのにショックを受けました。
それまでの時代の器と征服後の時代の器では全く流れのない別のものにとって代わるのです。
宗教的な意味もあり、それまでの文化は消し去られる。
器一つとっても、征服されるということはこういうことかと目の当たりにした思いでした。



世界から見て日本人が手先が器用だというのは、
私はこの縄文文化の流れが寸断されずに現代まで
目に見えない血の中に受け継いでいるからではないかと感じています。

手先が器用、というのは、作業が丁寧であるということ、
作業が丁寧であるということは心穏やかな環境であるということ、
心穏やかということは精神的に満たされている、ということ。

「忍耐力がある」「我慢強い」という言葉をスペイン語では、
tiene paciencia というのですが、
pacienciaの語源はpaz平和、であり、直訳で「平和を持っている」となります。
「忍耐」とか「我慢」と邦訳してしまうとニュアンスが違いますが、
そもそもの状態として、
「心穏やかに十分な時間をかけて丁寧に満たされた精神状態でいられること。」を
表しているのだと思います。
それを「平和を持っている」とスペイン語では言い表すのです。
それができない人がはたから見たらそれが「我慢強い」になるのかもしれませんが、
心が満たされ平和を持っている本人には関係がないことですね。
他国から見たら日本では時代遅れの縄文時代が異常に長かったけれど
それはこの時代が突出して精神的に満たされていたからなのだと感じます。
そしてその精神の充足は自然に添うところからきていると感じています。

なんだか今の私の作品作りにとても似ています。



日本の縄文時代があんなにも長く続いたのは、
精神が満たされていた、ということに他ならないと感じます。

精神が満たされる生活、現代社会もこれからここへ還って行くと私は思います。
物質的利潤の世界の中で手先の器用さだけを切り売りする時代は終わりました。
若い年代の人を中心に多くの人が気付き始めています。
もう子供たちが小学校へ通わないのも大切な意味があります。

これまでの進化は退化と同じことでした。
縄文人の優れた感性は、
人の能力を退化させる最新の医療や最新の科学をゆうに超えたものがあります。
もともとその力を自然のなかで人はもっており満たされていた。
そこへ還る。

そういうことなのだと思います。


2019.01.10 Thursday

『創造性と個性の殺害、知性の虐待の罪』


新宿のオペラシティのロビーで子供の絵画の展示を見たのはもう何年前になるだろう。

そこでは子供たちが描いたすべての絵が、
同じモチーフ、同じ色で、画一的に描かれていた。

皆同じ絵で、変だな、と私はまず思った。

見本そっくりに描いた子が高く評価されていた。

こんな絵画教室、私は恐ろしいと思った。




私は中高大と美術学校に通っていたけれど、
高校時代は暗黒だった。

なぜなら美術の時間の全てが美大受験にあわせてのカリキュラムに豹変したから。
受験に合格するためのコツや技術。

受験に出そうなモチーフを描く練習。画材も美大受験に合わせて指定される。

これは美術なのだろうか??
暗黒の高校時代。
私は絵が描けなくなってしまった。
純粋に大好きだったことが穢されてしまった。



現在学校に行かない子供たちが増えているという。
私の身の回りでも多い。
私はそれは自然の流れで当然だと感じている。

小学校の美術では、既製品のスタンプを渡され、
そのスタンプを使って「見本の様」に上手に押してアジサイを描けたら
良い成績がもらえる。
見本から外れた絵を描いた子は先生から注意される。
注意された子供は苦しんでいる。
創造力に長けた子供ほど苦しんでいる。



県立の芸術の家という体験施設で7年半ほど陶芸を教えていたことがある。

在る年から、公立の学校が少子化のため美術の先生の雇用を失くした。
美術の授業は社会の先生やそのほかの教科の先生が代わりに担当することになり、
美術の事など分からない、という先生たちがこの県立の芸術の家に研修にくることになった。

そういった先生たちに私が教えていて感じたのは、
まず、先生たちの基本的なマナーがなっていないという事。
使った道具を片付けない。
人の使っている絵の具を無断で横から使用するなど。
絵の具の付いた筆を洗うのも面倒くさい、
自分が使う絵の具を棚に取りに行くのも面倒くさい、
面倒くさいことはここのスタッフが全部やってくれるんだろう、
というのが態度に表れている。

『美術なんて大嫌いなのに、やだやだ。』と言いながら
工作の研修をする女性教員もいた。

先生と呼ばれる立場の人たちがどこかおかしい。
感覚が鈍っている。
これから先はこういう人たちが子供たちに美術を教えるのかと思うと絶望的な気持ちになった。



スタンプで見本どうりにアジサイの絵が描けたら良い点をもらえる。
オリジナルなものを作ったら、先生に注意される。

これは象徴的だ。

私が小学生のころ歴史のテストで、
何も思考せず、創造もせず、ただそのまま年号を書き入れただけで
点数がもらえる、ということに対して疑問を感じたのは正当だったのではないか。



友人の紹介によりこちらの画像をみてみた。
まさに。。

『【日本語字幕選択可】Prince Ea 「学校システムを告訴する」I JUST SUED THE SCHOOL SYSTEM』


「おとなしく座り 発言の前に挙手し
短い昼休みで 8時間拘束し
言われたことしか 考えず
Aをとるために 競い合って
この表記は 製品の品質を表すものです
A品質の肉 確かに分かり易い
(中略)
今必要なのは 創造的 革新的 批判的 自立的に考えて
つながることができる人です
(中略)
説明してください あなたはなぜ生徒たちを
クッキーの型や野球帽のように扱うのか
(中略)
みなが 異なる長所と ニーズと
ギフトと 夢をもっているんです

その子たちに 同じやり方で
同じことを教える 恐ろしいことだ
(中略)
これは 過去最悪の犯罪の
一つとして 認められるべきです。」


2018.12.31 Monday

『私の舟に乗りなさい。』

 
今年の6月、
高熱、頭痛、呼吸困難、激しい動悸になり、立ち上がることも困難になり、
何も食べられなくなり、どんどんやせ細ってほとんど骨と皮だけになってしまったとき
ぎりぎりの状況で自然農法のマクワウリに命を救われました。
約ひと月ものほぼ寝たきり状態は人生初めての事でしたが、
家から徒歩3分というこの時休み休みでぎりぎり歩くことができた近さに
このマクワウリを売るオーガニックのスーパーがあったことも大きく幸いしました。

その後も、基準の厳しいオーガニックの野菜たちをお送りくださる方が表れたり
また鎌倉のぺいすさんから食をつないで地上の楽園を体現されていることに衝撃を受け
心身共に、文字どうり大地に足をつけるようにして着実に回復することができました。

この経験も感謝と気づきに満ちたものになりました。
自分の作る調理も劇的に変わりました。それは意識が飛躍的に変わったからだと思います。



自然農法はまず大地を耕してはいけない。
土の中のバクテリアや菌やカビは、とても上手に住みわけして循環して土を豊かにしている。
多種多様な草木が生え、虫や鳥、へびやタヌキがやってくる自然の森を作る。
その循環のなかで成った実や野菜を頂く。
自らも自然の循環のひとつとなって。

耕すことでその大元のバクテリアや菌やカビが生態系を壊されて土が衰弱してしまう。
一度耕されてしまった土は元に戻るのに何年もかかる。
それだけ自然の豊かさは繊細に完璧に生態系を構成している。

自然から切り離された利潤の世界ではこうだ。
高価な耕運機を売りたいがために耕すことがいかに必要かを説き、
そうして土を衰弱させ、
衰弱した土では野菜も満足に育たないので人工肥料を売り、
人工肥料により虫がたかりやすくなるので農薬を売る。
本来自然に任せて人は特に何もしなくても実がなる、ということを知られては
大手の組織がお金が儲からないので、この悪循環がさも正しい農法の様に伝えられる。
(こう書きだしてみたら日本のいまの医療もまるで同じよう。。)

最近読んだ本2冊に同じことが書かれてた。
一冊はリンゴの有機栽培農家さんの本。
もう一冊はシベリアを舞台とした現代のノンフィクション。

自然農の視点から見たら
多くの人はなんと無駄で余計なことをしているのだろう。
お金と言う人工的なものが介在することで
たったひとつのリンゴを食べるだけでも複雑化し、
たったひとつのリンゴもお金が無ければ手に入らない。
「労働と疲弊」の麻痺したお金社会。

森に出てリンゴをもいで食べる。
ただそれだけのことなのに。

お金社会が起こすのはエントロピー。
自然の循環が起こすのはコヌルコピア。

リンゴの有機栽培農家さんがあたたかく笑いながら言う
『私の舟に乗りなさい。』。

ここにも箱舟が来ていると、感動の鳥肌が立った。




昨日のパンが焼けました*
窯から出たてをいただけるのは自分で作ってこその楽しみ。



有機リンゴの酵母の良い香り・・・ありがとう。いただきます。(*^-^*)


2018.12.21 Friday

食はこの地上に生きることそのもの

 
石臼での製粉〜袋詰めまで一貫してる小さな小麦農家さんの小麦粉が
気に入っていて買わせていただいているのですが、
先月、ちょうどストックが切れたので注文したところ、
”小麦の刈り入れ時なのでしばらく袋詰め作業ができません。”とのこと。
ご夫婦でされているところのようですので、人手がないのでしょう。
こういう「人」らしい展開、好きです。
小麦の刈り入れ、どうぞ心ゆくまでおつとめして下さい。
それまで私は信頼している個人店のパン屋さんで買うことにしました。

そうしてようやく先週くらいから
小麦農家さんの小麦粉の販売が再開されました。

早速、この秋の柿やりんごで起こした自家製酵母でパン作りです。
天女の羽衣のような至福のパン生地にふれていると、
自分の振動までも繊細になるのが感じられます。。

そうしてひさびさに自分で焼いたパン*
1次発酵はいつものように台所に放置。
暖冬とはいえ酵母にとってはかなり気温が低いので
満足いくまで膨らむのに約二日かかりました。
ただ、低温発酵させたパンは非常に味わい深くなることが分かっているので
(なのでわざと冷蔵庫のなかで発酵させる人もいます)
冬は冬で時間をかけるパンの楽しみがあるのです。

2次発酵は、晴れていたこともあり、
縁側に置いてぽかぽかの陽光のもとで自然発酵。
2時間くらいで1.5倍に膨らみ、
更にオーブンの中でその倍に膨らんでくれました*

ふわふわもちもちで
ついついあっというまに半斤ほどぺろり。




私が住んでいる場所の地域性だと思うのですが、
ビーガンやオーガニックへの関心が高く、
小さな町なのにそういったカフェや食堂が意外と沢山あります。
私が引越してきたここ数年で特にそういったお店が増えてきているのも感じます。
逆に私の様に食による体の不調により
そういったお店を求めている人が増えてきているのかもしれません。

私も体の不調が教えてくれたことで食への関心が高まり、
今たべているものがどこから来たのか、
どうやって来たのか、
関心を持つようになりました。

せっかくここに住んでいるのだから
ここの地域性を利用させてもらおうと、
ここ最近は、ビーガンの陰陽によるお料理教室や、
オーガニックカフェ主宰の種子法や野菜についてのお話会などに参加してみています。

人それぞれの状況や環境で歩んできた道の中で
気づいたこと、疑問に思うことなどの情報交換や
顔を合わせてのコミュニケーションは、
ネットや誌面からは決して拾えない
繊細な波調をともないながらのやり取りをすることができます。

声高に、というのではなく、
とても穏やかな中で、ひとりひとりの食が
これからの世の中を変えてゆくかもしれない、とも感じさせられます。

穏やかな強さ。

食からのコミュニケーションを通じて
自分の内なる感覚が磨かれる思いの毎日です。


2018.12.20 Thursday

土の日のお知らせ

 


22日開催の今年最後の土の日 まだお席がご用意できます。

ご参加の受付けは明日21日の18時までとなります。
ご興味ありましたらこの機会にぜひ。

初心者の方でもどうぞお気軽にご参加ください。



12月の土の日
22日(土) 13-15時

1月の土の日
18日(金) 13-15時
19日(土) 13-15時


入会費無料

参加費 1回 4000円 (土代、釉代、焼成代、税込)
    (中学生以下はおひとり1回3500円)
   ※完成した作品は約ひと月後に葉っぱ小屋にてお手渡し
    または宅配便にてお送り(要送料)します。

「土の日」へのお問合せ・お申込みは
葉っぱ小屋まで。
 
・メール  info@happado.com
・電話   080−1164−9020
・葉っぱ小屋店頭でもお申込み頂けます。
鎌倉市御成町11-10 2階
 アクセス:鎌倉駅西口より左へ100歩。
 御成通り右手インテリアマサキさん2階
 
※店頭申込み・お電話の受付時間は11-18時
※月・火曜定休
及びオーナーの制作期間中は不定休となりますので
  葉っぱ小屋サイトにてご確認お願いします

または直接MAJOまでメールでお申込みください。
majo_ceramica@yahoo.co.jp


2018.12.14 Friday

降りてくるのか湧いてくるのか

 
私の絵付けの方法というのは、
その時々にどこかからやってくる鮮明なビジョンを
そのまま映す、というもの。

そのビジョンは、どこかから降りてくるのか、
それとも自分の内から湧いてくるのか、という話がある。

自分に照らしてみてみると、
降りてくるのも湧いてくるのも結局は同じことではないかと思う。

なぜなら自分は全ての一部であり、
その一部の中にすべてを内包しているという実感があるから。

サンティアゴの巡礼道で
この地上の命として根源に届く幸せを受け取ってから、
この実感は確信的なものとなっている。




「華がある」ということについて、能楽師のお話。

華があるというのは、演者に向けられた言葉として使われているが
そもそもこれは観る側の内に在る華のことを示す。

観る者が大きな華を持っているか、たくさんの華をもっているかによって
感受性が大きく異なって来る。

演者から神髄を受け取ることができるのは、
演者に華があるからなのではなく、
観る側が華を持っているかどうかにかかっている、というのである。

これは能楽に限らず、この世のあらゆることに通ずる話だと思った。
やはり表現者(演者)の個人意識やメッセージ性などそもそも余計なもので、
ただそこに居て降りてくる(あるいは湧いてくる)のを待つだけ、
というのがこの世の真理。
そして「ただそこに居る」ということが
いかに難しいかということも改めて思う。

さらに能楽師曰く、
観る者が持つ華は、先天的なものなのか、後天的なものなのか。

これは未だ答えに至らずで、
生まれながらにして華をもつ者もいれば
後天的に磨かれることもあると言えそうだ、とのこと。



2018.12.02 Sunday

宮沢賢治 生と死 顕と幽






好きな作家は?と聞かれて
たぶん私は「宮沢賢治」とは答えないだろう。

けれど目には見えない最も大切な部分において
賢治がこの世界の摂理、本質に向かって行こうとする姿が
彼が文章で描いた世界から分かりすぎるくらいに伝わってくる。


今年「宮沢賢治の世界」と銘打って数か所で展示をしたのだけれど。

ご感想いただいてもがっかりすることもあったりして。

『メルヘンなところがいいですよね。』

メルヘン?

メルヘンの定義はよくよく考えてみると
私もよくわかっていないのかもしれないけれど、
賢治の作品には似つかわしくない言葉のように感じる。

賢治の世界と私の作品世界が結ぶものを言葉で表すなら
「生と死」あるいは「顕と幽」。

***

賢治が「春と修羅」に書いた言葉がわからない人には
きっと賢治の作品も
私の作品も
ほんとうにはわからないのだろうな、とも感じている。。


「わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」

宮沢賢治「春と修羅」序 より


***


今年の制作の中で「宮沢賢治の世界」を
絵皿のオブジェとして表現することができた時、
なにか以前からずっと待っていたものを
やっと迎えに行くことができたような気持ちになりました。

この賢治の絵皿のシリーズをご覧になって、
もう10年以上ずっと長いことお付き合い下さって居るお客さまから
お便りをいただきました。

その一部をここに転載させてください。(そのお客さまに許可を得ました)

「思うに…
もしかすると、そこに来られた方々は、
賢治の童話の”挿絵的なモノ”を想像していたのかもしれません。
あるいは、賢治の作品の明るくきれいな部分をとり上げて描いているのだろう、
と考えていたのかも…
でも、MAJOさんの作品ってそうじゃないですよね。
賢治の作品の本質を一枚の絵のなかにあぶり出し、
見る人に「あなたはどう思う?」と問いかける。
わたしは「う〜ん」と考え込んだり、賢治の本を再読したりして、
自分の心や思いの癖をいま一度見直すことになる。
MAJOさんの「賢治」には、そんな深さや難しさが確かにあるように思います。
だからこそ、良いのです!
わかる人はちゃんとわかりますし、
MAJOさんの手によって「賢治の世界」はさらに深まります。
ここまで表現できるひとはほんの一握り、ですのでどうぞ自信を持ってくださいね。
MAJOさんの”賢治さん”、機会がありましたらぜひまた取り組んでみてください。
私も楽しみにしています。」


このメールを頂いたとき、
『ああ、これからも続けてもいいのだ・・』と思えたのでした。

ありがたく思って居ます。

今年の制作の集大成として、本年最後の出展に
賢治の絵皿のシリーズを選ばせていただいたのには
お客さまから頂いたこのお言葉の力と、
(そのお言葉がまた作品の力となって同化してゆくのでしょう・・)、
そしてこれから先「表現する」という事において
心の深いところで大事なものを受け取り、解かったと思えたからなのでした。

やはりものをつくるということは、
私一人の作業でもなく、私そのものでもなく、
顕幽ともに何か別のところからやってくものなのだと感じました。
それをピュアな素のままにキャッチするためには
私は日々直感を磨いたアンテナで居る必要があります。


写真は宮沢賢治「双子の星」より。

***


くるみギャラリーのクリスマス展

12月13日(木) - 25日(火)12:00-19:00 最終日16:00まで

会場 くるみギャラリー
    国分寺市本町2-18-16
    電話 042-312-2963
アクセス 国分寺駅北口より徒歩5分


MAJOからは今年の集大成として絵皿「宮沢賢治の世界」シリーズと
桃色ラスター、アスールカップなどでの出展予定です。

ぜひお越しくださいませね。


2018.10.16 Tuesday


今日は閉じこもって絵付け仕事。
こんな日は、ちょこちょこ面倒を見ながらの天然酵母のパン焼きにちょうどよい。

昨晩仕込んでおいたパン種を
朝昼ごはんにタイミングよく焼き上げることができました。
味噌汁とかおから和えとかにも合う、がっつりした旨味の濃いぃパンです*


久々にいただく焼きたてパンの幸せ・・。
(天然酵母パンの場合は冷めてから旨味をより感じるのでそれも好きなのですが)

ついでにおやつに、里芋のパウンドケーキを焼きました。
すりこぎでできる範囲内ですりつぶして生地に混ぜ入れたらふわっふわの出来上がり。
ひよこまめと豆乳ヨーグルトから作った天然酵母液を生地に入れ、
1日半ほど常温で発酵させて膨らませました。


天然酵母でケーキなど作るのは難しいなあ、と感じるのですが、
今回はお芋の効果か、ふわふわで成功と言えそう。
色々ほかの野菜や果物でも試してみたいところです。




昨晩スペインの友人から連絡があり、
息子さんがグルテンアレルギーを発症して入院したとのことで
病院からの連絡でした。

昨晩はさんざんその友人とメールで話していたのですが、
なんだか変です。

私のお米のアレルギーもそうですが、
お米も麦も、人類が長く食べ続けてきたもの。
なぜ急に近年になってそれらのアレルギーが増加するのでしょう。

先日地元の葉山で開催された「までいなマーケット」でも
今年は「麦」をテーマとして提唱されていましたが、
現代の農業に於いては品種改良のしすぎなのでは?という懸念が浮上してきます。
と同時に農薬と化学肥料の問題も見過ごせません。

アレルギーというのは、体が「これを体内に取り込んではいけない」と
なんとかして体外に排出しようとする、体の自然にとって正常かつ清浄な反応です。

アレルギーが出たのだとしたら、体の方ではなくその食材を検査するべき、
多くの人が拒否反応を示すのならば、
やはり普通に考えて食材がもう「食べるものではなくなっている」
と考えるべきでしょう。

グルテンフリーがただの流行で終わりませんように。


結局その友人の息子さんは、
腸の検査の結果(検査がすごく痛かったそうでお気の毒です)
腸は正常に働いているとのこと。
そのため強いアレルギー反応が出ている原因が
医者も分からなくなってしまったとのことで
今日は血液検査をするのだそうです。

・・・もういじくりまわすのはやめましょうよ、と
それを聞いてつい友人に言ってしまいました。
現代医療を私は全く信用していない旨も伝えて。
(スペインの医療は日本に比べてまだ自然治癒に頼るところがあるので
経験上スペインの医療の方が、
薬剤を売って利潤を上げようとする日本よりはまだましとは思うのですが。)
食はもちろん医療も含めてケミカル・不自然を避けて、
あとは基本的にほっとけば(余計なことをしなければ)
体は必ず治癒の方向にしか行かなのですから。
気功の考え方とともに、私の意見として話をしました。

大きく見て大地も、そして身近な自分の体も含めて
最低限自然の邪魔をしないということの大切さ、
「治療」という名でその邪魔をするケミカルの怖さをまた改めて感じたのでした。



パン作りに関連してときたま拝読しているブログの最新記事が
丁度同じようなテーマを扱われていました。

ベーカリーアドバイザーの部屋 より
「赤信号みんなで渡れば・・・」
http://sizuasa.blog44.fc2.com/blog-entry-555.html



2018.10.15 Monday

自分で守る

 
家族に、今日はごはん炊いたから食べてね、と言われて、
有機栽培ではないお米だけど少しなら、とお付き合いで食べたら七転八倒の苦しみ。
2年前のひどいお米のアレルギー症状がまた出た。

米袋を確認したらあの時に苦しんだのと同じ「ゆめぴりか」だった。
あの時と異なったのは、原因が今回ははっきりしているので、
1日で収まったこと。
2年前の時は、お米が原因とは知らずに、
おかゆを食べ続けた1週間ほどの間にどんどん悪化してしまって
本当に恐怖だったけれど、
対処療法ではなく原因を抑える事の大切さが身に染みる。

本当に懲りて、お付き合いで食べるは無いな、と思った。
はっきり断る事が大事。
何が原因で苦しんでいるのか、家族ですら本当にはわからない。
自分がその身にならなければ本当にはわからないのは道理だ。
医療に依存してる人も多い。
今回もし病院に行っていたら、医者によって色々とは思いつつも
やはり基本的に日本の利潤に傾いた、真の意味においては貧しい医療では、
もっと余計なこと(ケミカルなこと)をされていたと思う。
本当の原因も医者は分からないままに。
日本の医療と言うものの多くがそういう思考回路でマニュアル的に動いているのだから。

これは健康に、命に関わること、
当の本人でなければやはり本当にはわからないのだと実感した。
自分の体をまもれるのは自分しかいない。
自分の体のことをいちばんわかっているのは自分(=意識を排除した体の自然)なのだから。
そのために日常、感覚が鈍らないよう、研ぎ澄まされている状態で居ること。

今回の件以来、おせんべいを食べても鼻の粘膜から喉にかけて腫れてしまって(目も痒い)
ゆめぴりかに限らずお米の何かがアレルギーを引き起こしてしまうようになった。

今でも、完全有機栽培のお米だったら何も症状が出ないので、
やはりお米のアレルギーというより農薬やケミカルの添加物のアレルギーではないかと思う。

少なくとも自分で用意する食は、長期的に摂取して行ってもちゃんと自分の体が喜ぶもの(最低限ダメージを与えないもの)を用意したいと思う。

当たり前のことだけれど。



2年前、そして今年の6月と、体質がクリアになって
このような反応をおこして「摂取するべきではない」と教えてくれる
身近な自然(=自分の体)をありがたく感じています。

自然から学ぶことは多い。



2018.10.05 Friday

宮沢賢治の世界

 
「宮沢賢治の世界」と題して
6月末から7月にかけて小さな企画展をしたのだけれど
内容としてはよかったものの、色々な意味で展示としては大失敗に終わりました。。

失敗の原因として場所にそぐわなかった、というのが一番大きかったことと、
そしてこれも展示場所に寄るのかもしれませんが
意外と宮沢賢治が書いた作品を知らない方が多い、ということでした。
これは本当に意外だった。

ただ読むだけでなくその作品世界まで深く浸透していないと
まったくなんにも伝わらない展示になっていたと思います。
そういう意味では場所を選ぶ企画展だったなあと改めて思って居ます。



私の作品たちもそうですし、
世の多くの展覧会をご覧になっても同じことが言えると思うのですが、
作品をご覧になり、その方が受けたインスピレーション世界を
さらに作品をきっかけにそこから独自に心の内で深めていただくということが、
展示にお越しいただいてお楽しみいただけるひとつのコツかなあ、、と思います。

作品に向かい合うのではなく、
作品が見ているのと同じ方向を見てみる、ということが
展示にお越しくださった方のインスピレーションの世界で起こった時、
初めて視界が広がり心の中に見えてくるもの
(それは作品への理解を含むそのバックグラウンドに広がっているもの)があると感じます。

だから作品をご覧いただくのに感覚が研ぎ澄まされる
そういった「環境」と言うものも必要になってくるのかもしれません。

また、目の前の作品の意味を言葉で説明して、
それで観たような気持ちになっている、というのでは
本当に、、作品がこの界に顕れた何の意味もないかもしれません。

今後はそう言った展示ができるよう
展示環境が作れるよう
心がけたいと思う一つの良い経験となりました。



先月の鎌倉での企画展「言葉にならない絵付けの世界」では、
大きなアンティークの飾り棚いっぱいを利用して、
「宮沢賢治の世界」の作品一堂に会して再展示させていただいておりました。

おひとりで会場にお越しくださった舞台女優の方が
お帰り際に
『「宮沢賢治の世界」の作品、ほんとうに素敵・・・』と
非常に深みのあるお声で静かにご感想下さったことが
いま、豊かに心に響いています。


この鎌倉での企画展「言葉にならない絵付けの世界」について
以前のおぼえがきにも書かせていただいたのですが、
この展示が、器をつくることや発表形態として
大きな転機になったなあ、と改めて感じています。
今後、うつわの形はしていても
「ひとつのオブジェ」という認識での表現、
これを大事にして行ってよいのだ、と
お客さまからのそういったリクエストも心強く、
あの環境、及び、あの規模で展示をさせて頂けたことが
思った以上の大きな収穫となりました。
自分の役割がより明確になったと思います。
ありがたく思っています。



次回のギャラリーによる企画展示の会場は、
最寄駅は江ノ電の「腰越」もしくは「江ノ島」になります。
会場は凛とした趣を持つ素敵な環境。
作品を集中してゆっくりご覧頂けることと思います。

企画としてもテーマ性の顕れたものになります。

近日中に詳細をアップいたします。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。





よだかの宇宙・・・


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