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2019.09.19 Thursday

家の修復工事始まりました

 


昨日までの日常が突然無くなってしまうことが現実に在るとは、
自分が被災者になるとは、
おそらく多くの人は自分の現実として思ってもみないでしょう。
私もそうでした。

昨日と今日が鮮やかに一変する
その自然の大きな力にはやはり敬意しかありません。

被災直後のおぼえがきにも書きましたが、
怖いという感覚はなぜかなかった。
それは思うに日頃から
海と山に自らの細胞ごとすっかり溶け込んでしまっていたから。
だから地震があっても津波があっても台風が来ても、
自然を信じている自分が居ましたし、
いまでも変わらず心から自然が大好きですし
並々ならぬ浄化をもたらず台風にもワクワクします。
そういう自分の心を確かめることができて幸せです。

2011年の東北関東大震災の後、多大なる津波の被害を受けた三陸の漁師さんが
『今でも海が大好きだ』とおっしゃっていた気持ちが
そのままいまの私の実感です。

狭い視野のなかで生きていたら
二項対立で物事を見て
気に入らないものには蓋をして
それで終わったように見せかけることもできるのでしょう。
けれど自然は・自然の生き物たちは、
二項という息苦しい狭さを優に超え、
立体的に立ち上り、
全てを包み込み調えてくれます。
調える方向に動いてくれます。
その自然の中の一粒に自分が居る。
それが真の姿です。
その実感を、今回、魂の奥で得たことが何よりの宝物だと思っています。

だからほんとうは魂は自然がおこなうことに対して「被災」なんて
ちっとも思っていないんです。
きっとこの感覚は私だけではないと思います。
全ての人の魂はまちがいなく大自然の子ですから。

もし災いと感じることがあるとすれば
それは人の魄が起こしたことだとわかるでしょう。

今回無事に救出できた本のうち、
菅原道真公が魂魄について書かれた本を、
落ち着いたら改めて読み返したいといま思っています。


2019.09.12 Thursday

避難生活4日目

 


今朝、工事準備中のうちの屋根を見上げると応急処置のブルーシートが見えました。


今回初めて知ったのですが、この家の屋根はトタンでした。
すこし背の高い家ですので、屋根が見えないんですよね。だから知らなかった。

母屋は築90年くらいの古い日本家屋で、
私の家はこの頑丈な母屋にくっついて建て増しでたてられていたので、
倒壊を免れました。
台風直撃の国にトタンはだめだよね。
屋根が飛ぶと連動して壁も弱まる。
台風通過のタイミングでぎりぎり救われました。
トタンって素材、日本の由来じゃないよね、と思って調べてみたら
ポルトガル語のtutanagaが語源のようです。
毎年台風が来る国には似つかわしくない建材ですね。

トタンでなくとも、
いまの建築では30年もてばいいという考えでたてられているのですね。
私の今回の家は大家さんによると築50年くらいだそうですが、
近所のかたのお話では、
私が住む前々回に住んでいた人の時も
屋根がダメになって雨漏りがあったと聞きました。

今後、風雨の祓いは更に強いものと成って行くように感じます。
(怖がらせよう書いているわけではなくて、
その先の善き日に向けてという意味です)

屋根がなくなるとどうなるのか初めて今回体験したのですが、
当然家の中に雨が降り、壁という壁は白糸の滝のよう。
柱は華厳の滝。
建材に使われていると思われるケミカルな物質も流れ出し、
室内に降る雨は黒く、
ケミカルなにおいもひどかった。
それが翌日お空は晴れていても続きました。
また、土壁が水を吸っていて、
翌日になってもその為なかなか室内の雨は止まらない。


台風直撃の晩は、できる限りの荷物を母屋へ運び出し、
そして明け方、雨あしが弱まったので、もう大丈夫かな、と思ったのですが、
父親が「家具類も運び出したほうがいい」と。
今思えば的確な判断でした。
(ちなみに父親は伊勢湾台風経験者。)

まず、屋根がない土の上に立つ家は、いつまでも湿気が抜けず、
台風一過のお天気とはうらはらに、どんどん家の状態は悪くなってゆきました。
壁が崩れ、床が持ち上がり、天井は膨らんで落っこちてきそう。
あの中に家具類を置きっぱなしにしていたら、確実にダメになっていたことでしょう。
母屋が無傷だったのもほんとうに幸いでした。

そして昨晩、ちょうど窯を焚いたこともあって、
(工房もダメージ受けているので、窯が稼働することが在り難い!)
ようやく今日になって家の中が乾いてきた感じがします。
床も壁も天井も惨憺たるありさまですが・・

闇の中、雨にぬれながら過ごした一夜は、貴重な経験でした。
恐怖というものはなく、ただただ黙々と何も考えず荷物を運んでいただけ。
ただそれだけでした。
今日になって改めて気づいたのですが、
私が真っ先に運び出したのは本でした。

幼いころからの、私の成長と一緒に沢山に増えた本たち。
沢山学ばせてもらいました。
電化製品より服よりなにより、まず本を一番に救った。

ちなみにパソコンの事に気づいたのはけっこう後の方で、
気づいたときには、ノートパソコンがずぶぬれになっていました。
が、いまこうして稼働しているのは本当に幸いです。
後日『意外とパソコンでぬれても大丈夫なんですね』と
大家さんに言ったら『普通はだめですよね。。』と苦笑されていましたが。。

去年6月の体調不良の時にデジタルなものが常に電源が入ったまま身近にあるのが
気持ち悪くなるので、それ以降、
寝る前や、しばらく使わないときはパソコンの電源を落として、
更にコンセントを抜くのが習慣になっています。
ノートパソコンですので上蓋もパタンといつも閉めています。
それが今回功を奏したように思います。
閉められた蓋の上は水浸しでしたが、水が中には入っていませんでした。
またコンセントもいつものように抜いていたので不具合も起こらなかった。
日常の習慣ってこういうときに生きるんだな。。。と変に感心したり。

もちろん、今回けが人が身の回りに誰も出ておらず、そのうえでのことですが、
自分が本当に大切にしているものが、改めてよく分かったように思えました。

濡れた本たちは今母屋の縁側にならべて乾かされています。
よれよれになってしまいましたが、いとおしい。
(写真は小学3年生のときに買ってもらった「火の鳥」。
あんぱんまんは、幼稚園の時のもの。)



台風に飛ばされたうちのトタン屋根は、
裏の家の瓦屋根を破壊し、
さらにその向こう遠くの空き地に落ちていたそうです。


2019.09.08 Sunday

嵐の前に

 





海はけっこう荒れていましたが、日曜ということもあって
海には思ったより人出がありました。

ちいさな女の子がお母さんと波打ち際をさんぽ。
『おかあさん!台風って楽しいね!』
そして大きな波がくるとその波と格闘するポーズ。
夢中になって波に入ってしまう女の子を
お母さんが「もっとこっちに来なさい」といざなう。

うん、その気持ちわかる。
私も子供の頃、台風の時は何か特別な感じがしてわくわくした。

おそらく震災以降とくに顕著に感じますが、当然とはいえ
今の風潮ではそういう気持ちを素直に言いにくいような気もするのだけれど・・・
この女の子の一言のおかげでふわあっと解放された。

閉じ込めていたもの 解き放つ。

こころのままに自然に沿っていこう。


すぐそこまで龍が来ています。


2019.09.01 Sunday

土に顕れるかたち 〜企画展『わたしの人魚姫』

 
今回とくにカップの形をしたものは、
高台の形状の繊細さ優しさ嫋やかさが人魚に相応しいものと成るように
ロクロ&削りで成形させてもらいました。
ぜひお手に取ってご覧くださいね。
カップのものは私にとって立体造形作品で、
存在するかたちまるごと全体で一つの宇宙です。

ロクロで土をひいていると
本当に自分が土の振動そのものだという事を思い出すようで
懐かしいような温かくて安心できるような
この星の大地とのここちよい一体感があります。
この感覚はもしかしたら、
人魚が海原と一体となって泳ぐ感覚の再現になっているのかもしれません。

造形彫刻と同じで、カップの形状も千差万別、そのバランスが個性を決めます。
ちょっとした高台の形の変化でイメージが変わります。
高台大事。
故に古来陶芸の世界では、
うつわ通のかたはよく、手に取って高台からご覧になりますね。

器の立体的な形状と絵付けも当然ながら
それぞれの形状ごとに密着にかかわりあっています。
ですからロクロでかたちをひいている時点で
その器に施す絵柄がすでに心に浮かんでいることが多いのです。
全てが自然に流れるように連動しています。

人魚の住まう場所としてふさわしいうつわの形状はいわば龍宮。
今回は龍宮としての器になりました。
高台も含めてうつわ丸ごとの世界をどうぞお楽しみください。









企画展 『わたしの人魚姫』

8月28日(水)-9月8日(日)月・火曜定休 12:30-21:00

会場 点滴堂 東京都武蔵野市中町1-10 2階 tel.090-6796-5281
アクセス 三鷹駅 北口より徒歩5分


2019.08.30 Friday

神話の記憶 〜企画展『わたしの人魚姫』

 


男性性を感じる女神(人魚)。

陰陽のむすびの法則。
この人間界に於いては男性性は陽、女性性は陰とされる。
けれど
陰のなかにもちいさな陽が
陽のなかにもちいさな陰が
それぞれ含まれている。

陶芸を始めたころに、
大学の教授から物理化学的な視点からのお話をお聞きした。
火の中にも少量の水が含まれている、ということがとても興味深かった。
100%の火だけでは燃えることができないのだ。

ちなみに陶芸家となる人は深く学びを進めるうちに
ふたての道に分かれるそうで、
・ひとつは物理化学的な陶芸の道へ
・もう一つは感性と造形の陶芸の道へ
陶芸の深層にはそのどちらをも兼ね備えている。
この二つの道を、古神道的に「顕界」と「幽界」と言い換えてもよいと思う。
自分に照らせば、圧倒的な幽界のなかにちいさな顕界が含まれて
作品の陰陽がむすばれていると感じます。
(狙ってそうしたわけではなく、図らずも、ですが)




瀬織津姫という縄文の古い女神がこの地上に顕れた発祥として
天からやってきたという物語がある。

ある種の隕石というのは生命で
(自然物に神が宿る日本の八百万神の認識と同じように)
その隕石が地球の強い引力に引き寄せられてこの地上に落下するのだけれど、
それが海に落ちるものもある。

隕石に宿る生命
(魂だとかエネルギーだとか言い換えてもよいのだと思う)が、
深い海の底から、地上に、天に、惹かれ憧れ想い続けるというのはありそうな話だ。

アンデルセンの人魚姫という物語は、
深い海の底の人魚が王子に惹かれ、夢破れて泡となり、
物語の最後に人魚姫の魂を救済する天使から天へ昇る約束を言付けられる。
(原作を読むと物語の最後には人魚姫は肉体を失い、魂になっていますね)

このアンデルセンの人魚姫の物語の骨格も
宇宙からやってきた隕石に乗ったエネルギーが深い海に落ち、
その強い生命エネルギーで海を司り、
やがて後に瀬織津姫と成って地上に顕れる神話と波長がとてもよく似ている。

宮沢賢治も不可視のものを見通す方でしたが、
アンデルセンもその過酷な幼少期・青年期を経て
この現世(うつしよ)の元(核)となる世界へ繋がっていったのではないかなと
今回の企画展に参加させていただいて気づき、そう感じたのでした。



企画展 『わたしの人魚姫』

8月28日(水)-9月8日(日)月・火曜定休 12:30-21:00

会場 点滴堂 東京都武蔵野市中町1-10 2階 tel.090-6796-5281
アクセス 三鷹駅 北口より徒歩5分


2019.08.28 Wednesday

龍宮 東から西へ 〜企画展『わたしの人魚姫』

 
点滴堂さんでの企画展、本日初日でした。
お越しくださいましたみなさま*ありがとうございました。

会場で作品をご覧になった方はもしかしたらあれ?と思われたかもしれません。

今回、人魚がテーマでしたが、龍たちが来ています。



今回の企画展の具体的なお話しはまだ未定だった今年の春、
『ただ今年は人魚の展示はやりたいと思っています』
と、おっしゃる点滴堂の店主さまに、
『瀬織津姫が西洋に渡って人魚姫になったと、私は勝手に感じているんです。』
というお話をさせて頂いたことがありました。

瀬織津姫はこの夏の個展での、私にとって大きなタイトルテーマでしたが、
(この個展に、点滴堂さんの繋がりからもお客様が何名様かお越し下さって
とても嬉しく思いました。)
私にとって展示のタイトルテーマは
その展示限りでこのテーマはお仕舞い・次の展示に向けて新しく切り替えて、
という訳にとてもはいかず、
何故なら私にとって制作の姿勢と日常の日々は素のまま重なっているので。。
これは先日おぼえがきした仕事と日常を分けず
すべてをレベルアップするということとつながります。

毎日、地元の海と山に親しむうちにおのずと瀬織津姫につながり、
まるでそのお手伝いをするように土の作品を制作しているのが現状です。
作品といいますが、今となっては私が作るものは私の作品とはとても思えない。
瀬織津姫の世界ですので神使である龍が、竜宮から顕れてくるのも道理。
人魚たちも龍宮の住人です。

そもそも目に見えないエネルギー体に人が名づけて形をつけようとしている訳で、
(可視できる物理的な次元は
いま私たちが生きているこの世界くらいではないでしょうか。
今や物理科学の世界でも11次元まで証明できるそうですね。)
エネルギーの本質が似ている(あるいは同じ)ものは、
時代や文化によって異なる名前で呼ばれようとも、
その根っこは同じ質のエネルギーです。

瀬織津姫のエネルギーを私は強く感知するようで、
その瀬織津姫のエネルギーにとても似ているもの(もしかしたら同じ)として
コノハナサクヤヒメ、カグヤヒメ、織姫、が私のアンテナに飛び込んでくるのです。

この同質のエネルギーをもって西洋では「人魚姫」、
日本では瀬織津姫(あるいはコノハナサクヤヒメ、カグヤヒメ、織姫)と
呼ばれているように私には感じられて仕方がありません。
つまり根っこは同じ。

そんな風に自分の直感とアンテナを信じて、
生まれてきた作品たちがこの世界の方々と出会えるように
(彼らは出会う為にこの世界に生まれてきていると感じられて仕方がありません)
私はお産婆さんとして、
この地球に感謝しながら
自然からおすそ分けいただいた血肉(水、火、土、鉱物)を使わせていただき、
彼らがこの世に成るがままに生まれ出づるお手伝いをしている、と思っています。

そしてこの世界に生まれてきた作品たちに
最上の出会いの場を作ってくださる点滴堂の店主さまには毎回感謝しています。
今回もとても素敵なディスプレイ、お写真で拝見いたしました。ありがたいです。

点滴堂さんに顕れた心地の良い空間で、
ぜひ作品たちと心で語り合ってみてください。
器の、作品の、奥底にまで、瀬織津姫のエネルギー宇宙は広がっています。

何かインスピレーションを受けて表現をしている方は皆同じだと思うのですが、
言葉にできない世界を作品で顕しているわけですので、
こうして私がここに今日書いたように言葉にしてしまったことで、
無理にこの現実世界(うつしよ)に合わせた表現になっている為、
反って本質的な世界から多少のずれが生じますし、
わかりにくかったり、
意味不明だと感じる方もおられるかもしれませんが、
ぜひとも作品と対峙されるときには頭で考えずに、
心の内で繋がってくださるとうれしいです。

どうぞよろしくお願いいたします。





企画展 『わたしの人魚姫』

8月28日(水)-9月8日(日)月・火曜定休 12:30-21:00

会場 点滴堂 東京都武蔵野市中町1-10 2階 tel.090-6796-5281
アクセス 三鷹駅 北口より徒歩5分


2019.08.11 Sunday

食つれづれ。

 


湿度が高くてなかなか乾かなかった。
やっと窯スタートしました。
海の心音。





昨日、いつものパンカフェに行ったら
マスターが手ずから育てたオクラとアスパラガスをくれました*

家に帰って煮びたしにしたら、衝撃の美味しさ・・・。

オクラってこんなにも甘くて優しい・・・
するっとヘタまで食べられました。

そしてアスパラも身震いするような
まるで新鮮なお刺身をいただいているかような美味しさ。
お野菜ってすごい。
いま採ってきたものをすぐいただくことの重大さを感じます。

生まれてから一度も冷蔵庫で冷やされたことがないお野菜たち。
美味しいだけでなく
エネルギーが全然違う!
心の満足度が全然違う!

そしてやっぱり誰がそれをどう育てたのか
ということもとても大切だと感じました。

よくスーパーで「山田さんのじゃがいも」とか
「加藤さんのレタス」とか書いて売っていますが、
そういうことじゃない。
だって山田さんや加藤さんがどういう人か、私しらないもの。
だってやはりその人の育て方が、意識が、お野菜に反映されるから。
お野菜も生き物ですから、影響を受けてます。
本当にそうです。

量産され、ただ商品のようにしか扱われていないお野菜たちは
とても無表情で心が閉ざされている感覚。。
もし人が同じように終始育てられたら、
きっとそんな無表情になってしまうのではないでしょうか。。
お野菜も同じです。
生き物ですから。

食をいただくことの根本を感じます。





前にぺいすさんでこんなお話しを聞きました。

店長のじゅいくん(10才)に、
お客さんがわざわざ北海道から
美味しいシカ肉(ジビエ)をもってきてくれました。

じゅいくん『シカは友達だから食べられない。』と断ったそうです。
そしてぺいすファミリーも受け取らなかった。

『わざわざ北海道から持ってきてくれたのにね。』と微笑みながら語る
るんちゃん、素敵でした。

美味しいからと、わざわざ遠く北海道から持ってきてくれた
お客さんからのお土産を子供が受け取らなくても、
「せっかくなのに悪いから」という気持ちから、
親御さんが受け取って、そしてそれを親御さんが食べていたら、
それはもう「違う」と私も思いました。

じゅいくんがシカ肉を断ったのは彼の生き方そのもの。
そういう本質的なことをじゅいくんのご両親がちゃんと
心のレベルでわかっているのが
ぺいすファミリーの素晴らしいところだなと感じます。



私は、外食ではお肉を食べることもあるのですが、
家で食べるものに、まず肉を買うことがありません。

以前、普通にスーパーなどでお肉を家で買っていたとき、
料理しようと手に取ったお肉から
悲痛な叫びのようなものが聞こえてくるような・・感覚がありました。

そうやって「商品」として肉をとられた生命の悲痛な叫びが
振動としてお肉の中に残っていたのかもしれない、とも今では思います。
食をいただくことについて考えさせられる出来事でした。

肉を食べることがだめなのではない。
けれど、食に対しての深い心からの感謝がなければ
それは食す側にとって、その肉を体に入れたとき
害になるのだと感じました。

もちろん肉にかぎらずです。

これはあくまで私の印象なのですが、
命をくれたものたちに添う『いただきます』の思いが持てない人に、
心の病気の方が多いように感じるのは偶然ではないかもしれません。

2019.08.09 Friday

存在の意味


神奈川県立の陶芸工房で7年半の間講師をしていました。

県立ということで、
県内の学校や施設の団体さんが陶芸をしにやって来ることも多々ありました。

そんな中、私の認識を180度変えさせてくれた団体さんがありました。



工房の事務所スタッフから連絡があり
障害者の団体の代表さんから工房の予約がありました、との事。

「○月○日、8名なのですが。。」

お話をお聞きすると重度の障害者の方々ばかり8名の団体さんでした。
障害者一人一人に、介護者が一人か二人付きます、とのこと。

そしてその中のおひとりは、ベッドに寝たきりで、
常に生命維持のための装置を付けておられる、とのことでした。
『陶芸をしたい』というご本人のたっての希望から、
ベッドごと、陶芸工房に入って、陶芸をさせてもらえないか、とのことでした。

工房の事務所スタッフと話し合い、そして受け入れを承知致しました。


当日、その8名の団体さんと付き添いの方々がやってきました。

床にシートを敷いて、
椅子に座れない方は、寝そべって粘土を触っています。

ベッドで来られた方は、
まず付き添いの方がこうおっしゃいました
『何かものをつくることはできなくていいんです。
足の裏の感覚は生きていますから、
粘土を足の裏に当てさせてください。』

生命維持装置のついたベッドの中のその方と、
私は上手にコミュニケーションがとれたかどうかはわかりません。
けれど、ひんやりとした粘土を足の裏に当てる、
気を付けなれば気づかないほどの少しの反応がその人に在る。
それがその人にとって、やってみたかった未知の新しい感覚であり、
こうして工房に命がけでやってきたことがどんなすごい冒険だったのかは
伝わってきました。


”陶芸のために、しかも物も作れないのに、
足の裏に粘土を当てるために命の危険をおかすなんて馬鹿げてる。”

そういう人もいるでしょう。

”ただ家にいてくれれば、家族だって、付きそいだって安心なんだ。
それが一番のバリアフリーなんだ。
命の危険をおかすより、
足の裏に当てたければ粘土を家に持って来て当てればいいじゃないか。”

そういう意見もあるかもしれません。

しかし、それでは、
何のためにこの人の魂はこの世界に生まれてきたのでしょう。

その人がやりたいということに向けて困難な冒険を乗り越えて
魂のきらめきを得る。
障害者に限らず、つまり生きることはそういうことではないでしょうか。


陶芸でお茶碗をつくることが大事なのではありません。
大切なのは明らかに物質ではない。
健常者だからこそ忘れてしまっています。
鈍くなってしまっています。
だからこそ逆に差別意識が自らの中に存在していることにすら気づかないのです。

陶芸をするためにベッドで来られたその方が目の前に存在したことで、
この世に生まれてきた本質を私に知らせてくれました。

人にはそれぞれ生まれてきたその存在というもの自体に深い意味があり
それは他人には決して代わることができないのだと思います。




魂にこの言葉が響きます。


『私はこれまでありのままの人生というものを嫌というほど見てきた。

……息をひきとる仲間を両の腕に抱いたこともある。
彼らはみな、うつろな目をして、
おれはなぜこうして死んでいくのかと私に聞いていたのではない。
いままでこんな人生なんのために生きてきたのかと私に聞いていたのだ。

ああ

人生自体がきちがいじみているとしたら、

では一体、本当の狂気とは何か?

本当の狂気とは?

夢におぼれて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。
現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれぬ。

だが、一番憎むべき狂気とは、
あるがままの人生にただ折り合いをつけてしまって
あるべき姿のために戦わないことだ。』


舞台「ラ・マンチャの男」より





時代が令和となったので、いまは、
あるべき姿のために軽やかに、舞うように、と致しましょう*


2019.07.23 Tuesday

つれづれ

 
政治は、
政治家や、
有識者のような政治や経済に詳しい方たちのものではなく、
ごくごくふつうの国民のものなんだよなぁとつくづく感じた今回の選挙でした。

もっと投票率が上がればいいな。

おそらく死をも超えてエネルギーの波動がこまやかな候補者が何人かいました。
「すべてエネルギーで見るのよ」と教えてくださった方がいて
ああ、政治もそうなんだなあと実感しています。

未来に可能性を感じています。

平成と令和のはざまで苦しんでいる人たちが解放されますように。


2019.06.07 Friday

伝えられる叡智


『苦しみの源は、「知らない」という無知な心であり、
幸せの源は、全てのもののありようを理解する智慧である、
と言われています。
教えを聞いて何か新しいことを学び、
学んだことについて考えるという実践によって
智慧を育むことが重要なのです。』

ダライ・ラマ法王14世

*

古神道で、
知って犯した罪より
知らずに犯した罪の方が重いという。
知って犯す罪は知っているからこそ加減が入るけれど、
無知であれば加減せずに取り返しがつかなくなる。
だから学ぶということは非常に大切である、という。



学びは尊い。

体験から学ぶこともあるけれど
自分の経験範囲では思い込みにとどまる。
自分の範疇を超えて
一部の本物の書物よって叡智のエネルギーを伝えられていることは
本当に尊いと思う。

宗教が扱う分野で(あくまで扱う分野であって団体の宗教ではない)、
その本筋の勉強を免がれて、
ただ直感にてイメージだけで
自らそれが何かもわからずに
「光」だの言って周囲を惑わせてしまう。
学んでいないゆえに汚水のような言葉をそれと知らずに周囲にぶちまける。
咎です。
本筋の民族的宗教とは一線を画す。
古来本筋の民族宗教からの学びを免れようとしてる人がその咎に引っかかる。
知らずに犯している罪ゆえに改善されることもない。

学びは大切です。

*

日本にいることで
古神道というものを実生活と古来の書き記された物との
両面から学ぶことができるのは
本当に恵まれた環境だとありがたく思う。
日本は本当に宝の山だ。

スペインでは体験から古神道を学ぶことはできるけれど
古神道の古書から学ぶことは非常に難しかった。
また古書と照らすことで深い意味に届くこともあれば
自分の思い込みを正すこともできる。

そういう意味では大好きな故郷スペインを離れ、
日本へ帰国したことの大きな意義をいまつくづくと感じています。



古神道の勉強は、
そもそも組織だったものや教義がないので
独学ではあるけれど、
本物の学びが大地そのものにつながり、
大自然そのものにつながる実感があります。

そして私が学んでいることが
ただの思い込みではないと感じさせてくれる出会いが
ここひと月の間、怒濤のように起こっているのはなぜなんだろう。
まるで答え合わせをしているみたい。

魂の核を揺り動かす人たちとの出会い。
つられて体調もとても良い(笑)
そのすべてがジャンルは違えど、
みな純粋な表現者であるという事も興味深いことです。

そして出会った表現者はみな、
生まれてくる作品は自分のものという狭義のものではなく
おおきな自然そのものに統合されている。
同じ方向を向いている人々の輪であり和。

そしてそういった「ジャンルが異なる人々」と
魂の核で出会えたことに重要な意味があると感じます。

あまりにいままでと異なる自分の状態と環境に、
令和というタイミングに働く力を日々感じ取っています。

これまで叡智を授けて下さった人々や
書物・それを書かれた人々に感謝を。
これからも精進して学んでまいります。


大好きな自然に寄り添いながら
道縁のある人が連綿と伝えようとしてきた叡智を受け取る楽しさ。
すべては連動している。


(写真は産土神社の亀ヶ岡八幡宮にて)


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