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2017.06.20 Tuesday

繊細な大地から


昨日の夕方いつものように浜辺を歩いていたら
なにかいつもとは違う力を大地から感じた。
ただただ歩いているだけでみるみる体が緩んでいく。
あまりに心地が良いのでどんどん歩く。
明日も来よう。
浜辺を歩きたい、と自然に思った。

なぜこんなに大地からうけとる力のようなものが心地よいのだろう。
なにかあるのかなあ。
夏至がちかづいているからかなあ。
古代の人が、夏至のような特別な節々を
重要だととらえていた感覚の鋭さを改めて思ったりしていた。

毎日自然に沿って同じ行動を繰り返していることで
目に見えない自然の変化にきがつく。
これは都会ではなかなか得られづらい感覚ではないかとも思った。


私は今までの人生のほとんどを東京で過ごしていたけれど、
かなり多くのことに対してシャットアウトしたり
ガードしたり、見過ごしていた、ということに最近気づく。
こうやって感覚を鈍くしなければ、毎日地下鉄にすら乗れないような場所だったから。

いまはここに越してきて、
自分を自然のなかに活かす方法が分かってきている。
山や海が、天や大地が毎日教えてくれる。


実験で、オーガニックの野菜を1週間食べ続けると、
体の中の科学毒素がほとんど抜けていた、という結果があるらしい。
ことの真実の詳細は私にはわからないけれど、
ただいえるのは、
どんなに疲弊した都会の中で生活していても、
人間は自然環境の中に置かれると、
いとも簡単に還ることができる、ということ。
人間はすべて、本来自然に属す生き物だから。
この大地の子供だから。

気功をしていると、
ケミカルな病院で重病と診断されていた人が、
状態がよくなっていくというのを目の当たりにするけれど、
これも同じ原理ではないかと感じている。
自然のなかに循環している気を流して
体を本来の自然の一部に戻すようにうながせば、
そのように体はひとりでに戻ってゆく。
自分の体が自分で勝手に自然の中に戻っていく。
自然の力の前では、
いかに最前線といわれようともケミカルな治療が
いかに雑で稚拙なものかがよくわかる。

気功もそうだけど自然の循環の中に体を還すことで重要なのは、
こうすれば治るとか、誰かに治してもらう、という依存心を完全になくすことと、
理論や経験値・固定概念をすべて捨てて、
ただただ赤ちゃんのように自然の中にいられること。
大人になるとこれがなかなか難しいという場合は、
ひとつのコツとして「数を数えるのをやめる」といいと思う。
とにかく時間を計ったり、数を数えるのをやめる、というのが、
エンドレスな都会的悪循環から抜けだし、自然に還る手段のひとつになる。


2017.04.29 Saturday

ノアの方舟

 
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、
代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。
これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、
すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。
水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。

雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、
神と地上のすべての生き物、
すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
(旧約聖書 創世記)


神が約束を立てたものを、
人の側が忘れてしまってはいけませんね。
(忘れられた約束はどうなるのでしょう。)

今日東京で見事な虹が出ていたそうです。
都心に七色の光「虹」あらわれる
(日本気象協会 tenki.jpサイトより)

今、この現代の私には、
神が「このときの約束を思い出せ」と人々に示しているかのように見えました。

美しい虹の姿にハッとさせられて、
直感を鋭く、を一番に、日常を過ごしたいと改めて思いました。






2017.04.05 Wednesday

テストアレルギー

 
他人からの評価について、
少し前のおぼえがきに書かせてもらいましたが、
学生時代は深刻なアレルギーと言って良い程のテスト嫌いでした。

学校を卒業してからも、
「他人からの評価=テスト」という深く心に刻まれた傷は残り、
テストを受けるリアルな夢を何度も何度も繰り返し見ては
苦しい目覚めを迎えていました。
学生という長い期間、テストというものの繰り返しにより、
もともと自分が大好きだったことが失われてゆきました。

あまりに傷が深いのか、
たとえ必要とされるような事でも、
テストという方法で他人から何か調査されたり評価されたりすることに
ストレスと苦痛を感じるのです。
たとえば、
陶芸の仕事を始めたころ
もう学校は卒業してすべてのテストから解放されたと思っていたのに、
仕事のため仕方なく運転免許取得に教習所へ通ったことも非常に苦痛で、
ストレスにより教習所通学中ずっと体調を壊していました。

スペインに住んでからしばらくも
高校時代の夢を見たりして混乱するときもありましたが、
ようやくじょじょに薄れていったように思います。

スペインでの田舎の暮らしは、紙の上での評価はなくて、
目の前にいる人を見て、その人のやっていることを見て、
その人と直接コミュニケーションをとる、という
時間のかかる非合理的な社会でした。

それが私には素晴らしかった。

スペインでそういう生き方が現実にあると知り、
私の内で、学生時代に失われた大好きだったことが蘇りました。
揺るぐことのない根源的な力をもらいました。
紙の上の合理的な評価や力量ではなく、
命から湧き出るエネルギーに繋がるものです。

一度頂いた命のエネルギーは、
日本へ戻って来ても決して消えることはありませんでした。
そしてこのエネルギーに基づく直感も鋭くなっていました。

ある日、
数十年の間ながらく聞いたことがなかった質問を、
日本のアートと呼ばれる企業的活動に関わる人からされました。
「あなたはどこの大学でてるんだっけ?」
これがこの人の、貧しさ。
それは今の日本社会の、貧しさでもある。

それでもそういった貧しい質問に頼るような人が救われるチャンスはあると思います。
その救いの手助けを私がするように促されたことも実際にあります。
そして実際に手助けとなる事に関わらせて頂いた時、わかったことは、
私は手助けはできるけれど、
最終的に本人が気づき変わらなければ何も変わらない。
本人が、それがこの人生で最後のチャンスかもしれない、と気づいていなければ
何にもなりません。


私のテストアレルギーというのは
本質を見ようとしない人々と関わって生きて行かなければならない社会に対するアレルギー
だったのだと今では思います。

沢山の人がほんとうは不自由な思いをしていると思います。
世界はもっと広く深いこと、
頭で考えずに、
自分が本当に心から学びそして選べば、
他人の行う合理的な・表面的な評価などまったく関係なく、
大地ととも豊かに命を養い生きることができると、いまでは知っています。




2017.02.08 Wednesday

メモ





船は港にいる時、最も安全であるが、
それは船が作られた目的ではない。
       パウロ・コエーリョ





今の日常に続くサンティアゴの巡礼道を、私が歩くきっかけとなったのは
パウロ・コエーリョ氏のノンフィクション作品「星の巡礼」を読んだこと。
こんな不思議な道があるのならいつか歩いてみたいと思った。

そしてその後、はからずもスペインに住むことになり
住んでいる間に歩こうと思った。

実際に巡礼を終えて
「星の巡礼」を再読してみたら
もう自分はこの本の住人になることはなかった。
私の中に私自身の「星の巡礼」が息づいて
私の現実として歩きだしていたから。

Cuando termia el camino del Santiago,
empieza tu autentico camino.
(サンティアゴの巡礼道が終わったときに、
あなたのほんとうの道が始まるの)
これは、
私が巡礼道の小さな町で霧に煙る道で迷っていた時に出会った
白装束のおばあさんに言われた言葉。

それから私はスペインの陶芸の町で暮らしつづけ、
また日本に帰国し、
月日が流れた。

あれからもうずいぶん長いこと待って、
なかなか邦訳されなかったパウロ氏の「巡礼者の告白」が刊行された。

この本は、フアン・アリアスという記者が、
細心の心配りのもとでパウロ氏へ行ったインタビューをまとめたもの。
強制収容所へ入れられたという経験をパウロ氏が持っていたことを知り
そしてそれが彼の心の奥深くに根をおろしていることを初めて知った。

崩壊した自らの日常を立て直すことを決めた瞬間のこと。

この本は氏のことが書かれた本のなかでも
私にとってとても大切なものとなった。



ある人と今読んでいる本の話題になって、
私はこの「巡礼者の告白」にとても心惹かれていることを話した。

その知人も私の話から興味を持って、読んでみたい、と言った。

その後しばらくして、その知人に会った時、
曰く、
「あの本、アマゾンで検索したけど、あまり評価高くないよね。」
だから興味がなくなった、と。

評価?
私にはわからない。

***


評価という言葉に続けて書く。

スペイン語のスキルアップなどのために
なになに検定受験というようなものには私は全く興味がない。
実際に必要なスペイン語と、
受験のノウハウの勉強は全く別物だとも思うし。
それよりも先に必要なものが
もうすでに目の前に起きているということもある。
受験に費やす時間より、目の前の目的そのものに向かう。

もちろん、
大きな国際機関で仕事をすることで実現したい目的がある、
その目的のためにTOEFLである程度の数字を出す必要がある、
というのであればわかる。
この場合、
検定を受けるのも、国連に入るのも、
それに合格することが目的なのではなく、
例えば下層民の生活や労働を保証するなどの目的実現のための、
それらはただのツールである。
そういうことならばよくわかる。

けれど
合格することそのものが目的になっている検定などの受験に
何の意味があるのかわからない。
他人からの評価が、それが目的になってしまっているのは、
私はやはり何か不健全さを感じる。
語学を何のために使うのか、
本来のその国のことばを使うことの目的は?
他人の評価を上げることに一生懸命になり、
目的を見失っている。

これとまったく同じように
サンティアゴの巡礼道を何度も歩く人を見ていると、
どうしても無限ループにはまり込んだ迷える魂が見えてきてしまう。
本人もそれと気づかずに、
自分が何度も歩いたことや、
その手段など経験を積んでいるとの
人からの高評価を期待する姿。
そこに縛られ、抜け出せないでいる姿。

サンティアゴの巡礼道は人生そのもの。
他人の評価を気にしていれば自分を見失う。
魂の希望を見失う。

ただ一つ言えるのは、
個人個人が自らの内でもっと強くこの大地そのものと結びついていれば
そんな事にはならない。
大地は気づかれることをいつも待っている。
1度で気づかなければ、何度でも気づくまで現れる。現れている。






2017.02.07 Tuesday

失われたもの

  
先月、10年以上愛用してきたパソコンが突然壊れてしまった。
中古で手に入れたものだったので実際にはもっと長年使用されていた。

そのパソコンの中にはこの10年の蓄積の色々なデータが入っていて、
膨大な数の写真も入っていたのだけど、
けれどなくなってみると何が入っていたのかあまりよく思い出せない。

デジタルになってから、
写真をたくさん気兼ねなく撮るようにはなったけれど、
フィルムで撮って印画紙に焼いてもらっていた時代に比べると、
撮った写真を見かえすことはずっと少なくなってしまった。
古びた紙のにおいとともに昔のアルバムをめくる楽しみ、
というのも日常の中からすっかりなくなってしまった。
(デジタル時代になる前の古いアルバムは、
 今だに見かえしたりするのですが。)

気づかないうちに写真というものの役割が
何かだいぶん変わってしまったのかもしれない。

***

住所録も壊れたパソコンの中に入れていたので、
今月14日から始まる二人展「in to the wood」のDMをお出ししたのが、
いままでの名簿からの最後のご案内になってしまいました。

こちらはバッドタイミングなことに、
ちょうど名簿を整理した直後のクラッシュだったもので、
バックアップもとっておらず、顧客名簿というものがなくなってしまいました。

でもこれはこれで次へと向かおうと思います。
ここおぼえがきにもしばしば書いておりますが、
作品の質のようなものがここのところ変わってきておりますので、
お客様の作品に対するご見解のようなものも変わってきているのを感じ、
名簿も新たにした方がよいのかもしれません。

次の展示「in to the wood」におこし頂けますようでしたら、
会場に芳名帳を置いてますので、
今後の展示開催のご案内のDMをご希望の方には、
お手数をおかけいたしますが、ぜひご芳名をお願い致します。

次回からは、「in to the wood」展にご芳名頂きましたお名前より、
お客様の名簿を作りなおしたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。




14、16、17、19日は在廊しています。


***

追記。

引っ越ししてしまった友人や
ここ数か月以内にメールアドレスが変わってしまった友人の
データもすべて消えてしまったので、
中には完全に連絡が取れなくなってしまった人もいる。
こういう事ってあるのだなあ。。
何もかもデジタルに頼って、
人と二度と連絡が取れないかもしれない、という状態になる事が。

ただ実際には、
親しい友人関係は年賀状があるので手紙での連絡はとれる。
やはり紙媒体は強いなぁと。
このような事が起きて、
年賀状のあたたかさと大切さを今更乍らしみじみ感じるのでした。。




2017.01.20 Friday

アートと芸術

 
お寺のお坊さんで且つアーティストの方って意外と多い感じがしています。
これは友人からきいたお話。
あるお寺の尼さんがアーティストとしての活動もされていて、曰く、
『アート活動をしたいと言う自分のエゴの為に周りの人に迷惑をかけている。
もうアートは止めようと思う』という決心をされた、と。

このお話を聞いて『?』と思ってしまった。
この方のアートって芸術っていったい本物なの?と。
この尼さんはアートはエゴといっているように、
作品は自分の物だと思っているのかな?

私はある時、
「芸術」というのはイコール「純魄(じゅんぱく)の祈り」だと気づきました。
アルタミラやラスコーの壁画然り。
原始美術がすべて宗教画や像であるという事もとてもわかりやすい祈りの顕し。

宗教という形をとっていなくても、
熟練した職人がつくるものや、
子供が描く絵、
主婦の趣味の絵画のなかに、
純魄の祈りが宿っていたらそれは芸術なのかもしれません。

逆に、純魄の祈りに届いてしまったら、
人の意思でそうそう簡単に
芸術を辞めることなんて出来ないのではないでしょうか。
その人は役割を果たさなければならないのですから。

芸術というものをつきつめてゆくと純魄の祈りが残る。
逆にそこにそういった祈りの宿っていないものは芸術ではないと感じます。

そういう目で見ると、
上記の尼さんのしていた事は本当に芸術だったのかな、と疑問が湧きます。
明確に言える事は、
彼女は芸術と宗教を頭で考えて分離させて、
尚かつ芸術は宗教より下というランクづけしているのでしょうね。


追記:
私はあえて「芸術」という言葉を使いましたが、
これは私の経験上からの印象なのだけれど、
日本語の「アート」は「芸術」の対訳ではないように感じます。
一般的に「アート」を掲げて目につく活動をしているのは、
お金儲け目的のニオイがします。
日本語では「アート」と「芸術」では目的が全く別のものとして
使われることが多々在るように感じています。



2017.01.17 Tuesday

うどんをつくりながら。。

 
私が『エリザベート』という作品に強く興味ひかれるのは
この物語が神話の構造をもっているからかもしれない、と、
今日、朝昼ご飯のうどんを作りながら考えていました。。^^

神話というのはまったくの作り話という訳でもなく、
この世の目に見えない部分、
顕すことのできない真実の動きや構造を示唆した物なので、
人の意識上の教義・教訓などの物差しで測ろうとしても測れない
・・というのが本来の姿です。

『エリザベート』の物語では、
エリザベート皇后だけに見えるリアルな存在として死が顕われます。
死とエリザベートはもともとは同一のものですが、
エリザベートの意識や常識、そしてそれらを増長させる環境が
それを分離させてしまっている。
自然の中でただただ生きていられれば、
生も死も同じものであると誰もが気づくことでしょうけれど。

元来人はすべて半顕半幽のもの。
顕界だけを頼り信じて生きていても、
もとめる真実にはなかなか近づく事が出来ない。

目の前の死が自分そのものである事を受け入れられない限り、
(それも愛をもって受け入れられない限り)
この世の生物としては不完全であり、まことの意味で不幸である。
死は大いなる自然から与えられた大変重要な生き物としての「変化」のひとつだから。

(宝塚版でのみ扱われているトート(死)の台詞、
『死は逃げ場ではない!』というのもかなり象徴的です。
死は愛を持って受け入れるもの、、と。
東宝版にはこの台詞は無く、同じ作品なのに演出と解釈の違いによって
東宝版もウィーン版も宝塚版のような神話の構造を持っていない。
その理由はおそらく、
頭で考えすぎて意識的に物語を作ってしまっている部分が
舞台上でクローズアップされているからの様に感じます。
東宝版ではいくら巫女的能力の高い花總まりさんが主演でも
ラストで閉塞的な物語の構造に縛られてしまっているのが残念に思えます)

神道ではよく忌み事や穢れという言葉を使いますが、
死、出産、血、など人として生き物として絶対に避けては通れない物が
穢れと言われ、忌み事と言われています。
これは私が古神道を勉強する中で
ずっと以前から学びそして感じている事なのですが、
忌むことや穢れというのは、
嫌うことや汚いという意味ではなく、
『大いなる畏れを持って対すべき自然の神意』のこと、
またはその神意に対する人として取るべき態度のことではないかと。
それが本来の意味だったのではないかと。

月のものがある女性は穢れといわれて神社のお参りなど遠慮するもの、
とまことしやかに言われているのを聞きますが、
『そうかなあ。』と私自身は鵜呑みに出来ずなんとなく疑問に思っていました。
実際それからののち、
古い神社の宮司の方からの言づてで、
『べつに境内に入る事もお参りもかまわない。
ただ神棚にあがっているものには触れないように。』と言われて、
『あぁ、やっぱり。』と思ったのでした。

人は現実の生活の中で、目の前の諸々の人の都合に合わせて
根本的なものを人為的に狂わせてしまうことがあります。
それを純化し、元にもどすには、
人が自らの内に生まれながらに持っている研ぎ澄まされた直感と、
その直感を無意識に信じる心、
そして自らの源である自然に対しての開いた心が必要です。

そういったキーワードを示唆する物ごとが、
特に宝塚版の『エリザベート』の物語の中にははからずも沢山出て来るのです。
これはいま現代のこの世に生まれてくるべくして生まれてきた物語かもしれないなぁ、
しかもこれは、目の前で実際に肉体に宿る事によって化身となる
舞台の作品である必要があったと。

・・・・なんて思うのでした。



うどんはおいしく出来ました^^



2017.01.08 Sunday

 
思うに、統べてをよい状態(コヌルコピア)に運ぶ
いちばんの切っ掛けは食じゃないかと思う。

食(食生活や食に対する考え方)をみれば、
その人の体の状態、
精神の状態、
そして霊格というもの、
そういったもの総てが顕われているのがわかる。

伊勢神宮に食の神様をお奉りしているのには
かなり深い意味がある。

生き物は食べないと死んじゃうから食べる、
という事以上の意味が食にはある。

良いものを食べる、というのは、
高価な食材を使ったものを食べるという意味ではなく
細胞の1つ1つがちゃんと活きているものを適量食べるということ。

そういった活きた食をきちんととるべきところを後回しにしている人は、
人生の中に於いて最も大切なものが後回しにされる。

食は体に影響し、精神に影響し、霊格に影響する。
昔読んだ古神道の本に『霊格があがると顕著に食が変わってくる。』
との旨書かれていたが、さもありなんと思う。

そういった意味で、この約1年の間、
特別な食の仕事に就かせていただき
まさにそういった事を学ばせていただいたことは、
私の人生の中での非常に大きな意味を持つ。

栄養学や医療的な健康面に注目されがちだけれど、
それだけでなく、台所で行われている事は
生命を、魂を繋ぐ場であるという意味で非常に神秘的である。
食を調えれば、総て調う。
なにか滞りや行き詰まりを感じたら、
短絡的に表面的に取り繕うのではなく、
根本から習慣としての活きた食を調える事を考えたら良いと思う。

食を調えると、その6年後には
かなりはっきりとその違いが表れてくることと思う。



2016.12.24 Saturday

クリスマス・イブ

 
ひさしぶりにゆっくりと浜辺を歩いていたら、
バベルの塔とクロネコの手のようなものがおちていたので拾いました。



バベルの塔はらせんを描く。
おサカナたちのお城は
らせんのつみかさなりでつくられた海のカスティージョ。



本日無事に「海のカスティージョ(小さなオブジェ)」や
山桜と陶のユビワや、土のかけらたちが
神戸のアトリエシードさんに届けられました。
28日まで個展開催中です。
よろしくお願い致します。



東京では、明日最終日を迎える国分寺のくるみギャラリーのクリスマス展
こちらにも「海のカスティージョ」を展示して頂いています。
また、明日25日の最終日のみの出品になってしまいますが
「山桜と陶のユビワ」を納品させてもらいます。



明日は私もくるみギャラリーに在廊しておりますので
よかったら遊びにいらしてください。



12日24日。
今日はクリスマス・イブですね。
スペインではクリスマスには家族が集い、
特別なごちそうを(私が居た地域では主に海老を)頂く晩。
日本のひと昔前のお正月のような感じがします。

教会ではミサがおこなわれ、
クリスチャンでもないのに聖歌隊に入れて頂いていた私は
ミサの内容にあわせてこの日の特別な曲をみんなと歌わせてもらいました。

ヨーロッパのクリスマスは、総じて厳粛でおごそかなもの。



イエスの誕生を祝うこの日には、本当にすさまじいエネルギーがあるのだと
今日、浜辺を散歩しながらつくづく感じていました。

町の景色もいつもと違う。

いつもは人もまばらなのに、今日は大混雑のケーキ屋さん。

プレゼントや鶏肉をわくわくと買い込んでいる人々。

宗教的に全く関係のない国や人々に強い影響を与えている。
教義を知らなくとも、経済的に・感情的にものすごい影響。

日本のクリスマスは、宗教的に関係ない、といっても、
その宗教的なエネルギーが発している影響であるということに間違いない。
ひとりの赤ちゃんの誕生を祝う、祝いのしあわせのエネルギー。

それに、イエスが生きていた当時だって、
イエスのことを理解していた人などひとりも居なかった。
その弟子たちですら。

彼が生きていたその当時も、
今と変わらず人々は、彼からの現世利益的なギフトを欲しがった。

宗教が違うなどというのはどうでも良い事で、
いまも昔も
人はなにもなにも変わっていない。

『人は歴史から何も学ばない、ということを知っている。』
とは誰の言だったか。



自然は常に、癒し回復する方向へにしか進まない。

自然から見れば、いまも昔も医療や科学や教育や宗教など常に遅れていて
そしていつも暫定的なものである。
それなのにそれらが妄信的とも言えるほど酷く影響力を持っているのは
イエスの生きていた時代も同じで、
その暫定的な医療や科学や教育や宗教などに苦しめられている人々を、
地上の同じ生きとし生けるものの一員として真摯に受け入れ対峙したイエス。

それはその当時の概念からしたら奇跡的な事であった。
いいかえれば当時の常識からしたら反逆的なことであった。

イエスは、一生抱きしめられるはずのない人々を、その腕に抱きしめた。

すくい主は抱きしめる。
穢れとされ、虐げられてきた人々を。



イエスの誕生の道は、
それはそのまままっすぐにイエスの受難へとつづいていた。

イエスはすでに自らの死を知っていた。
いつ、どこで自分が死ぬのかを。
けれど”何故”自分が死ぬのかは知らされていなかった。
何のために自分は死なねばならないのか分からなかった。
それが彼の最大の苦しみだった。



クリスマスは、みんながひとりの赤ん坊の誕生を祝い喜ぶ日。
そしてそのひとりの赤ん坊の受難を思い、苦しみを感じる日でもある。

だからこそ祈る。
しあわせなクリスマスでありますように。



2016.12.06 Tuesday

お米という植物の味を思い出す。

 
陶箱たちもよい具合に焼き上がってくれました。

野生のウサギ。


逆さになって眠るこのかたも。


もともとは茶道などで使用する香合ですが、
ちいさなピアスやユビワなど入れて頂く事も出来るかなと思い、
陶箱と呼ばせていただいているシリーズです。




鴨の力による有機栽培のおいしいお米。
感謝して頂いています。

生で噛んでも甘いお米。
ついそのままぽりぽり食べてしまいそうになります。
これを焚くなんてすごい発明だなぁ。。と、つい大昔に思いを馳せる。

今年の6月にお米などの残留農薬のアレルギー症状がひどくでてから
(炊きたてのご飯が洗剤のにおいがして、
それを食べるとほんとうに殺虫剤を飲んだかのような酷い症状になったので。。
他の家族はそれを普通に食べていましたが。。。)
そういった訳でずっとお米を食べるのをセーブしていましたが、
今こうしてほんとうに安心して食べられるお米に心から感謝です。
植物の力を頂いている感じがとてもあります。
ありがとうございます。

おにぎりもひさしぶり。
おにぎりってすごくエネルギーが凝縮した食べ物のように感じられて
だいすきなんです。
元来のお日さまや大地の力が感じられる
弾けるようなつぶつぶのお米のおにぎり。
おかかとお味噌。中にはもちろん梅干し^^
幸せです。


仕事中、作業に差し支えない行程の時にはポッドキャストを流しているのですが、
先日聞いていた番組「世界発信!旅人に訊こう」で、
都会から移住して高知でシェアハウスを経営してる
若いご夫妻を取り上げていましたが、非常に納得できる内容でした。

そのシェアハウスでは食事は必ず住人全員揃ってとるそうですが、
食材にはこだわっていて、出来る限り有機栽培、出来る限り地元のものとの事。
お米は100%自給。
埼玉出身で実家を出て以来シェアハウス以外に住んだ事がないと言う奥さんは、
亥などの野生動物の解体も自分で行い(その為の免許を取得した)、
それぞれの生き物が、その生き物らしく生きているものを頂きたい、
そういったものを体に取り込みたいと言っています。
たとえばブロイラーのニワトリなどは
自然に備わった抱卵の本能を品種改良により無くされていて
そういったニワトリの卵や肉を体に入れる事で、
自分も妊娠したり子供を育てる能力が落ちて行くのかもしれない、と。
彼女は、時々仕事で東京に行くと時間がなくて、コンビ二のものをたべ、
すると必ずあとでうぇ〜っとなる。多分油が体に合わない、
今は家からおにぎりと梅干し持参で東京へ行くと。
(東京にいくと食べるものに本当に困るとご夫婦で言及されているのも印象的です)

旦那さんは、子供の頃から食に気をつける親に育てられていて、
東京で料理長の職を経て高知へ移住。
幼い頃は、友達と一緒に添加物の多い駄菓子など買い食いすると
すぐにお腹をこわしていた。
オーガニックのものなど食べていると、
野生の体の機能が研ぎ澄まされているので、
体に悪いもの・必要ないものを摂取するとすぐに排出しようとする。
体の機能が高まっているという事で、
べつに体が弱い・お腹が弱いということではない。
そういった体の機能が鈍ったまま
どんどんいらないものが体の中に蓄積して行った結果として
癌や糖尿病になったりする、ということも明言されていて。
大病するひとはそういう場合が多いと言えると、私も思っています。

このご夫妻は、なんとなくのやわな範疇ではなく、
2011年の震災を経験し、それを真摯に受け止めておられ、
そして現実的にこういった生き方にすっかり変えて
今はとても活き活きとインタビューに答えられている様子が、
聞いていて清々しく感じられました。

「世界発信!旅人に訊こう」より
・第159回【日本 / 福岡 糸島】食べ物とエネルギーとお金をつくるシェアハウスとは 前編
・第160回【日本 / 福岡 糸島】食べ物とエネルギーとお金をつくるシェアハウスとは 後編


後編では原発のことにも言及されていて、
なかなか話題にされにくいこともはっきりその土地で明言し
生きて生活して居られているご様子がうかがえます。



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