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2017.08.10 Thursday

先月のギャラリートークから

 
この間友人たちと話していた事で、
スペイン語には『産む』を表す一つの単語がないという話題について
ここにもすこし記してみようと思います。。


『産む』は、スペイン語で
dar la luz と言います。
直訳すると『光を与える』。
これが『産む』という言葉として一般的に使われています。

かつての経験で、私の妹が出産した時にスペインの友人たちに、
『私の妹が光を与えたの。』と言っても、
なんだかちゃんと通じてるのか不安になったものです。
もちろん勘違いなく、すんなり通じていました。
日本語の『産む』という言葉とはだいぶん異なる感覚です。


『光を与える』=『産む』というスペインの感覚で、私の中ですぐさまつながるのは闘牛です。

そもそも『闘牛』などと誤訳されているのでわかりにくくなっていますけれど、
スペイン語では『corrida de toros』といいます。
直訳で『牛の走り』。
別に誰も戦っておらず、何の試合でもなく、
輝く生命への畏怖と賞賛の儀式が『corroda de toros』です。
闘牛という名称は、
その国の文化の本質を知ろうとしない外国人が思い込みでつけた名称のようです。



先月のアントニオ氏とのコラボ展でのギャラリートークでもこの話題が出ました。
『corrida de toros』
(誤訳による誤解を避ける為にここでは敢えて闘牛という言葉は使わない事にしますね)
これは、人生そのもののを現(うつ)したもの。

闘牛場に出るまでの約4年間、
牛は野生に近い状態でのびのびと暮らします。
闘牛場(plaza de toros /牛の広場)に出る3日前に、
牛は真っ暗な部屋(子宮)に籠もります。

そうして当日が来た時、
真っ暗な長い廊下(産道)を通って、
わけのわからないまま眩しい光のもと、広い空間に放たれるのです。
『Dar la luz』。光を与える。

牛の広場(闘牛場)で、なぜ自分がここにいるのかもわからないまま、
牛は目の前の困難を乗り越えていかなければなりません。
その困難に面と向かうのか、
それとも背を向けて逃げるのか、
生まれ持った、そしてその場で培った資質が問われます。

やがてすべての生き物が必ず迎える死を受け入れます。
『corrida de toros』は人生そのもの。

マタドール(牛に死を与えるもの)と牛が
最期に対面するその瞬間を『真実の瞬間』とcorrida de torosでは言います。
そこにあるのは『愛』としか言いようのないものだと言われています。
実際に私がスペインで見たcorrida de torosはかなり宗教儀式的に感じました。


スペイン語の『産む』という言葉が
『dar la luz/光を与える』という表現で表されている真相が
スペインで古代から連綿と続いている『corrida de toros』の儀式から
ありありと見えてくるように感じられます。



アントニオ氏とお話していると、なんというか。。たいへん深い気付きに出会うことが多々あります。

異文化を知ることが、自国の内なる文化を照らす。
今日の様な話題もまさにその一例のように思えます。




2017.07.19 Wednesday

メアリと魔女の花

 
とても面白かった!!
こういう映画が見たかった!!

いままでいわゆるジブリ映画を見てきて
なにか物足りないといつも思っていたものが充足されたような映画でした。
「メアリ〜」は、ジブリ解散後、
ジブリのスタッフさんが多くかかわって出来上がった作品だそうで、
ジブリの看板はすでに外されていて、ジブリ作品とはもやは異なるものでしょう。



丹田が鍛えられている人ならば、
この映画に真の丹力があることが容易にわかることでしょう。

この世の真実が語られるとき、何の矛盾もなくすべては繋がっていることが分かる。
気功も、「響き渡るシベリア杉」も、el camino de Santiagoも。

この真実の輪にこの映画は加わる内容だったと思う。。



物語の初めからきちんとメアリの魂魄が描かれていて、
魄が優先し人として見苦しいことをする場面もあるけれど、
自らのしたことを恥じ、魄が最小におさえられ、
魂が大きく膨らんでゆくのには感動がある。
彼女が意を決した最後の魔法を使った「夜間飛行」は純魄のなせるもの。


メアリの成長。。を描いた映画とはちょっと違うように思う。
メアリはすでにすべてもっていて、
その力を発揮できる環境に今まで遭遇していなかっただけ。
だから自分がすでにどんな力を持っているか本人も知らなかった。
彼女が成長して変わったのではなく、
本来の自分を活き活きさせる場面に遭遇した時に初めて
自分本来の力を発揮することができた、というお話ではないか。



魔法なんてなくても、もうすでにすべて自分の中に持っている。

それがうまく活かせなくて歯車がすれ違ってしまうこともあるけれど、
ほんとうに必要となったその時にこそ輝きだすその力は
元来何者にも奪われず、どんなことがあっても輝きを失うことはない。

映画の中で、魔法の花がいともたやすく奪われてしまうけれど、
結局「花や魔法ではない、そんなものは奪われてもかまわない。」
という事ではないか。



魔法のほうきくんが最後の力を振り絞って息絶える場面はこの映画の中でも大切。
メアリはあのとき、
魔法があろうがあるまいが、
やるべきこと・自分の役割は決まっているのだと肝で理解する。
そしてその力は自分の内にしかないのだ、ということも。

連れていけるぎりぎりのところまで、折れたほうきを連れていく
あのときのメアリの気持ちも嬉しい。
モノは、ただのモノではない。
あの壊れたほうきにも魂が宿っているのだから。



「善い」と思えることは人それぞれで、
その人の生まれ育った環境によっても違ってくる。
人のために何かしたい。
人の役に立ちたい。
遺伝子操作の研究を今後の人類にとって良かれと思って続ける人も、
本当に病気が治ると思って薬品投与や手術をし続ける医師も、
そこに悪意があってやっているわけではないかもしれない。

でもそれが自分の本位と異なるとき、
自分にそれは必要がないとわかったとき、
それが自然の生き物として不自然であると感じたとき、
人任せ、情報任せ、成り行き任せにするのではなく
自らが対峙すること。
本能的な直観を信じること。

それができるかできないかで結果は大きく異なってくる。
すべてはすでに自分の中にある。



たとえ何度でもこの後困難があったとしても、
もともと自らが持っている力の輝きの前では取るに足らないこと。
心配することは何もない。
この輝きはいまは本当の道を知っているから。
ほんとうの輝きのために、ほんとうに必要とされる道を歩いているから。

何か目に見えない自然の大きな力に祝福されているような物語。



『私はなにもできないけれど、待っているから。』
大おばさまのこの言葉。
これほど勇気をくれる言葉はない。

帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
そこに自分が座る椅子がある。
それがどんなに幸せで、生きる力を与えてくれることか。



映画のなかに「魔法なんていらない」というセリフがあるけれど、
最終的には「魔法なんてあってもなくても同じ」ということが描かれていると思った。

つまり、魔法があってもなくても左右されない、ということ。
最強ではないですか。
だから最後までエンドア大学の建物は美しいまま。
それに対する不安もないし、
もうこれ以上相手にする必要もない。



「そうだ、私、今夜だけは魔女なんだ。」
っていうセリフも素敵。



この映画をみてきたばかりでうまくまだまとめられず、
感動のままに箇条書きしました。
ちいさなエピソードのひとつひとつがきらきらと輝きちりばめられた
根源的な幸せを、まぶしいくらいに力強く描いた作品でした。

素敵な物語をありがとう!


2017.07.16 Sunday

やってくるものたち 


現在出展中の作品のひとつに、
ここおぼえがきでも工程をご紹介していた
「深い海のひかりと泡」という絵皿があります。


この作品に限らないのですが、
私はいつも作品がどうしても自分の作ったもののように感じられず、
どこからかやってきた他人ごとのように感じているので、
(つまり私は彼らをキャッチするアンテナのようなもの)
今回もそんないつもの自然な調子で
この絵皿のことを少し書いてみようと思います。

今までより大きな窯の導入もあり、私にしては大きめの絵皿です。

必要以上にサイズが大きくなるのは疑問ですが
その絵柄にとって必要な大きさというのはあると思います。

そう、この春に見てきたミュシャの「スラブ叙事詩」もそうでした。
一連の叙事詩を見終わった後、
まるでひとつのお芝居を観終わったようなあの感覚。
あの物語の世界にすっかり自分の身を浸す感覚は、
あの大きさがあってこそ。
必要あってあの大きさの絵にミュシャが描いたのだと
展覧会場で実際にこの目で見て体感して、それがよくわかりました。

もちろんミュシャの大作ほどの大きさはありませんが(笑)
この人魚姫の絵皿も、この大きさのうつわがあってこそ
ここにやってきたのだと感じています。

良い、悪い、ではなく、
それぞれの大きさに見合ったものがちゃんとやってくる。

私は素焼きの終わった器をみると、
次はどなたがここへやってくるのかとてもワクワクします。
トントンと扉をたたいてやってくるまで
どなたがやってくるのか私にもわかりません。
自然現象です。

そうしてこの大皿にやってきたのは、
リュウグウノツカイと人魚姫でした。
ぴたりとこの器に収まったのでした。


さて、ここから余談なのですが、
この絵皿「深い海のひかりと泡」の裏側。

先日、アトリエシードの店長さんと龍についてお話ししていたのですが、
あとで気づいたのが、この絵皿の裏側のこと。
よくよくみると銀彩の焼き上がりの感じがまるで龍のうろこのようで。
それもなんだか生きてるみたい!



銀彩の焼き上がり風情も、人智ではコントロールできないことのひとつで、
こんな風にやきあがるのはなんだかおもしろい。

深い海の守りをまかされた龍が
しらないうちにやってきていたのかもしれません。

それにしてもなんとも不思議な力のある絵皿に焼きあがりました。
いつまでも見ていたいような、
みているとすうっと吸い込まれそうな、そんな人魚姫の雰囲気を宿しています。

ぜひ会場にて実際にご覧いただけましたら幸いです。


企画展『人魚姫の涙 〜光をさがして』
 7月15日(土)ー8月13日(日) 12:00〜19:00 水曜休

出展作家
MAJO (造形・絵付師 逗子)
NOE Mielotar(ガラス 群馬)
glass32(再生ガラス 沖縄)
GlassGlass(ステンドグラス 大阪)
殿最操(造形・陶器 和歌山)
やんばる意匠(染色・紅型 沖縄)

会場/アトリエシード
 兵庫県神戸市中央区北長狭通4-7-3 元町フタバビル201
 TEL.090-6323-2037 ※元町駅 徒歩1分


2017.05.30 Tuesday

スラブ叙事詩

 



聖アトス山というのは、
ローマ・カトリックでいうところのバチカンにあたる、ギリシャ正教の聖地。
この地で聖母マリアが亡くなったとされています。

聖アトス山は古くから女人禁制の山となっており、
これについては、podcast番組「行け!世界遺産と雑学の旅」で、
チャイさんがご自身の意見として言われているように、
奉られている神(キリスト教的には聖人というべきでしょうか)が、
女性であるから。

奉られる神が女神であるからこそ、それを奉るのは男性である、
というのは、神道の陰陽結びでも説明が出来そうな事です。
天照大神をお奉りしているのですから、天皇陛下は男性でないと成らないんですよね。
ひとつには自然の摂理、この世界の成り立ちに沿ったそういう説明が叶うと思われます。




先日、「ミュシャ展」をみました。
上写真はスラブ叙事詩の中の一枚。(撮影許可された場で撮りました)

6月は制作などで密にスケジュールが埋まっているので、
行くなら今月の内にと、国立新美術館へ
ずっと気になっていた大連作「スラブ叙事詩」を観に行ってきました。

平日だというのに入館まで2時間待ち!
混雑する展覧会は今まで避けていたのでこんなに並んで観たのは初めてです。

ただ、それを押しても見ごたえのある展示でした。。

とりわけミュシャがすきなわけではないですが、
今回プラハよりシリーズ全作が来日した(奇跡的ですね)「スラブ叙事詩」の連作は、
ただうつくしい、ただ大きい、というだけではない
精神の深淵を哀しいくらいに伝えてきました。

これが、ミュシャが画家として本当に描きたかったもの、というのがうなづけます。
それも、それまでの彼のグラフィック的な仕事の業績を否定するものではなく、
すべて繋がって行きつく先にこの「スラブ叙事詩」があったのだと観ていて感じました。

近隣の国々に攻め込まれ蹂躙された戦争の場面の多いシリーズですが、
どの絵も、何か穏やかさのようなものがあり、
蹂躙された側のスラブ民族に光が当たって白く浮き立っています。

この連作の最後の1枚は民族自決の場面。

恐怖をあおるようなこともなく、
権威とか栄光にとらわれることもなく、
けれどノスタルジックと言う言葉ではこのスラブ叙事詩を表すには弱すぎる気もします。

この地上に生まれた命、人の叡智、神の調和、そういったものが
ただしんしんと降り積もる白い雪のように積み重なって
そこにスラブ民族として生まれたミュシャの心からの光が当たって
このスラブ叙事詩が生まれたように感じました。


2017.05.19 Friday

花をまとう


今年に入っていろいろな展示に出展させていただいていたので
なかなか気になる展示にも出かけられずじまいでした。

ちょうど制作も展示も一区切りのタイミングで、
10年来お付き合いいただいております
作家あっかさんの個展に伺ってまいりました。

あっかさんはもともと京都の友禅工房で絵付けの職人をされていましたが、
その後独立して横浜に工房を構えて、
現在はギャラリー展示とネット販売を中心に活動されています。

あっかさんオリジナルデザインの麻のお洋服は、
特別なご縁でタイの職人さんに縫製していただいてるとの事。
使用している麻布も、あっかさんが直接タイに足を運んで
着心地の良いもの、色合いの美しいものをセレクトしています。

これからの季節、
あっかさんのお洋服の面目躍如ではないでしょうか。





日本古来の柄、あっかさんオリジナルの柄、
絵柄の一つ一つに意味とテーマがあって興味深いです。



背面の肩にとまるように胡蝶柄が。。



こちらはあっかさんオリジナルの海のイメージの絵付け。



海の絵付けいいなあ。。素敵です。
他にも色違いでさわやかな萌黄色もありました。



こちらは肩からしだれる菊の花。


あっかさんのしだれ菊(乱菊)のロングベストが重宝していて、
Tシャツにぱっとはおるだけで雰囲気変わります。
去年スペインでの個展のオープニングセレモニーに着ていたら
むこうの方々にも大変好評でした*

あっかさんの絵付けって和柄がベースなのだけど、
和過ぎないというか、ほどよいオリジナリティがあって着やすいんです。
絵柄と布とデザインとの黄金比。


タッセル付のがまぐちも、和のみにとどまらない
どこかオリエンタルムードを漂わせていて素敵でした。
布の質感も素晴らしいです。

個展会場は、横浜のみなとみらい駅の改札でてすぐ、
とても広いギャラリーで、見ごたえたっぷりでした。
いままでのあっかさんの展示の中で最も出品点数が多いのではないでしょうか。
必見だと思います。

ほんとうに良いものを作り続けているあっかさんのお洋服やバッグ。
わたしもいつも大切に長く使わせていただいているものなので
「これ、ほんとうにいいよ〜」と言ってみたくてご紹介させてもらいました*

展示会の詳細は下記あっかさんのサイトへ・・・
『2017.5/15〜21 花をまとう inみなとみらい』
http://akkaakka.com/event/201751521in.html




2017.05.02 Tuesday

チェルノブイリ原発事故から31年

ロシア系のニュースをみると、
チェルノブイリ原発事故から31年という見出しが目につきます。

時々のぞかせていただいている、
ベラルーシ在住の、チロ基金(チェルノブイリ原発事故に伴う医療支援活動など)
の責任者として活動されている日本人の方のブログでも
その話題が取り上げられていました。
以下少しですがその方のブログから転載させていただきます。
------------------------------------------------------------------------

昨年の今頃は「ついにセシウム137の半減期が来るから、
きっと内部被爆の数値も下がるに違いない。」
と期待していたのですが、予想は外れました。
(中略)
ベラルーシの子どもたちの内部被爆量には変化はありません。
おそらく生体濃縮が続いていて、
事故のとき放出したセシウム137全体から言えば、
数は半分になったとはいえ、食品の汚染は続いており、
逆に人間の体内に蓄積している・・・ということでしょう。
蓄積が絶え間なく続いているので、結局ベラルーシ人は内部被爆し続けており、
それが測定すると数値として表れている、ということです。
(中略)
結局、ずっと放射能と付き合う生活を送っていかなくてはいけません。
次の半減期は2046年。劇的な内部被爆の減少はおきているでしょうか?
一人一人の体重1キロ当たりの内部被爆量として考えると、それは起こらないだろうと思います。

全文こちら→「チェルノブイリ原発事故から31年

------------------------------------------------------------------------


放射能に関しては、東京は場所によっては
ベラルーシの何倍も汚染されているとも言われています。
また日本では食品添加物に対してEU諸国に比べると大変遅れていて、
農薬や化学物質の種類も添加量も大変多い。
農薬のようなものと放射性物質が結びつきやすいのは、
福島原発事故で静岡のお茶の汚染が酷かったところからも容易に想像がつきます。
(福島の原発事故当時、静岡ではお茶のみが放射能による出荷禁止に。
茶葉は育てるのが難しいらしく、普段から大量の農薬が使われているとの事。
それが放射能と結びつきやすくなった原因かと。)


食に関しては、
自分で身を守らなければならないという意識をさらに強く持たねばと、
自分の身は自分で守らねばと、
今回チェルノブイリ原発事故31年目関連の記事を読んで思いました。

去年6月の私のひどい胃腸の不調は、
日本でお米に通常使われている農薬が原因でした。
わかっている限りではお米の残留農薬が原因。
けれどまさかお米が原因と最初はわからず、
体調が悪いからとおかゆを食べていた為にどんどん症状が酷くなってゆきました。

そもそも以前から、
炊き立てのごはんが洗剤のにおいがすると感じた時点で
そのお米を食べてはいけなかったのです。
身体はちゃんと知らせてくれたのに、
頭で考えて「みんな食べているから、、いつも食べてるものだから」と
身体の信号を無視し食べ続けた故に、本当にひどい体の状態になってしまいました。
それまで長年食してきた食品添加物の体への蓄積も
合わせて引き金となったのかもしれません。
一度ひどい目に合ってようやく学びます。
以来においや味に不信を感じるお米は食べないようにしています。
白いご飯が味がしない、
というのがそもそもおかしな話なのです。

「白米が嫌い」という友人が何人かいるのですが、話を聞いていると、
嫌われる原因は、やはり今日本で普通に食べられている白米が、
農薬により植物として疲弊したものになっていること(だから味がしない)や、
またそれを補う為にモチ米が混ぜられている(もち米で無理にモチモチさせている)
ことが挙げられるように思いました。
元来のお米の、穀物の香りや、植物の力を全く感じないのです。
おいしくないのです。

去年の秋、私の不調を心配して友人が送ってくれた
合鴨農法の自然のお米をいただいたとき、
今まで食べていたものは何だったんだろうと愕然としました。
お米がたいへん香ばしく、植物の香り漂う白いごはん。。

日本の食はなぜいまこんなに貧しくなってしまったのでしょう。。
お米にかぎらず残念なことに日本では、
スーパーなどで買い物をしていて食品添加物ゼロという食料を買うことが
とても難しくなっています。
日常出来ることとして私は最低限、
乳化剤(=いわゆる防腐剤ですね)
イーストフード
カラメル色素
増粘剤(増粘多糖類)
この4つだけは入っていない(あくまで最低限)ものを選ぶようにしています。
もちろん化学薬品名のようなものが原料名に入っている物も食べたくありません。
それ以前に、食べても美味しくないんですよね。
特に去年の6月の洗礼を受けてからは、舌が敏感になりました。
敏感、という言葉は違うかも。
今まで添加物を当たり前のように食して麻痺していたのが、
ようやく正常な味覚の状態に戻ったと言うべきでしょうか。

私は肉類はほとんど食べないのですが、
野菜なども農薬や化学肥料に加えて
いまは放射能と言うものにも十分注意せねばならなくなりました。
自分の体を守るのは、自分しかありません。
本当に去年の6月にひどい目に合うことがなかったら気づかなかったこと。
あの時は今までの人生にないくらいに苦しいつらい状況だったけれど、
生きる上で大切なことを学びました。

昔から私はおなかを壊しやすくて、
その当時は私の体が弱い・悪いように言われていたけれど、
今思えば、体のセンサーがちゃんと反応して、
いらないものを身体に取り込まないように守ってくれていたのだ、と思えます。
身体の自然はすごいな、と思うし、
今はちゃんとそこに目を向けて生活できるようにしたいな、と思うのでした。
まあ、単純に、
自然な美味しい「食品(薬品ではなく)」を食べたいという事です。



2017.04.18 Tuesday

舞楽

 
「舞楽では運動の変化を描き出すことが
音楽の目的ではない。
音楽を巻き込もうとする時間の流れに逆らって音が表現していく
それぞれの出来事一つ一つにわれわれをひきとめることが
音楽の目的ではない。
これとは反対に、持続するもの、われわれの外にあって
分割不可能なものの存在を感知できるようにすることが目的なのである。」

--ポール・クローデル「朝日の中の黒い鳥」より--



ポール・クローデル本人もおそらくそれとは気づかずに
彼が基より内に持っている土着的フランスのキリスト教民族文化と
日本の古神道とに共通性を見出した、
その感性を感じられるところにこの本の面白さがあると思った。

私がスペインの土着的宗教文化(民族文化)から感じ取った
古神道との共通性と同じものを、この本から感じている。

上記抜粋させてもらった文章にポール・クローデルが表しているように、
日本の民俗的文化宗教(古神道)を特に能楽や舞楽から鋭く感じとって書いているのが愁眉。
芸術というのはこのために在るのだということがひしひしと感じられ、共感させられる。


2017.04.06 Thursday

アナスタシア6巻 読了

 
アナスタシアの6巻が手元に届いた。
ページ開くとふわあっと森の香りが広がった。
そうだ。
紙は木からできていたんだ、と
あまりに当たり前のことを思い出す。
しっとりとした紙が手に吸い付くように優しくなじむ。
それだけで、この本がとても大切に丁寧に作られているのがわかる。

本、とはただの情報だけではない。



引き込まれてあっという間に読了。
この本を読むこと以上に大事なことなど他にない、というくらい引き込まれた。

すべての神話や伝説の意味がわかってしまうような気がする。


「魂にとって最もよい場所とは自らの手と魂で創造した楽園である」
                   〜アナスタシア6巻より





スペインの窯元のお世話になる工房を初めて訪問した日、
職人さんの一人が、絵付けのテーブルのところに置いてある
赤い椅子をぽんぽん*と叩きながら「これがMAJOの椅子だよ!」と言った。
この日から、私に、スペインでの居場所が出来た。
居場所がある、ということは、
なんて心地よく、素敵なことだろうと思った。

そうしてすべてはこの赤い椅子=私の居場所から始まったのです。


アナスタシアの6巻を読みながらこんなことを思い出していました。


2017.03.08 Wednesday

ほんもの

 
昨日のおぼえがきに書いたサックスの少女は、
KYOKOさんというそうで、有名な方なのですね。
ご本人のブログもありました。
小学生でプロを目指す音楽集団として国内外で活動的に演奏されていて、
その年齢に比してのキャリアは長いようです。

私は先週末の夜に銀座の和光の前で初めて出会い、
最初は、遠くから聞こえてくる音色に
『あ、ピアソラのリべルタンゴだ!』と近寄って行った。

近寄ってみると、『こんな遅い時間に?!』と、
演奏のうまさにも、子供だということにも驚いたが、
深夜のライブハウスでも演奏している彼女からしたらまだ宵の口だったかもしれない。

上記のご本人のブログは、
始めの内はお父さんが書かれていて(やはり音楽畑の方??)
「画家は1代、音楽は2代、味は3代」というように、
彼女もこのお父さんの英才教育を受けて育っているように読めました。


昨夜寝入りばなに読んでいたお父さんの言葉。
真剣に、真摯にものを生み出すこと、表現する人ならば
皆うなづくのではないでしょうか。

『悪運はその人の性格・環境・ものの捉え方がすべてと
私はかねてから思っている。
〜中略〜
自分自身に微塵の不安も無い人、それが強運の持ち主ではないか』


『100万回なりたいと思っても、
それが行動に反映しない生き方・人生は
外れクジを100万回引いているのと同じ。』

私もいつも思っているように、
「人はいとも簡単に願いを叶えることができる。
より具体的に願ったことが叶いやすい。
概して人は悪いことをより具体的に願ってしまうのだけれど、
心から具体的に本当に自分らしい心地よい生き方を
(微塵も疑わずに)願えばいい。」
という事と同じで、
別の角度からの言い方をされていることだと思います。


そしてまた、
KYOKOさんは最高の師匠に教わるために片道3時間かけて習いに通ったとのことで、
『その師匠を好きでなかったら、その人に習う意味がない。
自分が将来なりたい人物のできるだけ傍に行け。』
という事もお父さんは書かれていますが、
これも、先日おぼえがきに書いた私の気功の先生の言葉、
『家が近いから、月謝が安いから、という理由で
習い事をしていても意味はなく
(外れクジを100万回引いているのと同じ)、
その世界で、最高の人に習う、ということが大切。』
というところに重なるものを感じます。

なにも日本じゃなくてもいいのだし。
それは私も実体験からよくわかりますし、
最近、指揮者の西本智実さんのブログ
さかのぼって読んでいて面白いなと思っているのですが、
彼女も、日本独特の確固とした掟があるこの国のクラシック界から離れて、
自分の信じる道を歩んでる。
「私は本物を求めている」とは西本さんの言。

どんな状況でも何の職業でも、
真実を突き詰めていくといつしかみんな同じひとつの道を歩んでいて、
そしてその道は必ず頂上へと向かっているのだなあと感じるのです。


今回、KYOKOさんの演奏に力をもらいました。
何より路上演奏の場に和光の前を選ぶんなんて優れています。
彼女は岐阜県から来て演奏しているようです。
本物を真剣に目指しているからこの場所を選んだのでしょうか。
銀座の和光は、いまの日本でただ一つ残された本物のデパートだもの。






2017.01.28 Saturday

鎌倉山で

 
お正月の展示でのご縁から、
鎌倉山のGallery招山さんへおじゃましました。
まるで地中海のリゾートのような立地。
ギャラリーの、海に向かって解放されたテラスで深呼吸。
ぽかぽかの陽気にすっかり心身ゆるんでしまいました。

今日は招山さん企画のこちらのイベントをされていて、とてもたのしく過ごさせてもらいました。

ゲストの高知からお越しの早川ユミさんのお話を伺っていると、
人はまるごと自然そのもので、
自然を大事にすることは人を自分を大事にすることそのままであり、
そして人が自然であることは、究極に幸せな事なんだ、と、
改めてじんわりと深いところで感じました。。

私は「冷え取り」という思想とグッズ的なものにはあまり興味がないのですが、
人の体は脳だけではなくすべての器官で感じ・考えている、
自然でない繊維の衣服に触れている肌はとてつもないストレスを感じている、
この声に耳をすませることができるのが本来の心身の姿、
というのはとてもよくわかります。

私も、ヒートテックアレルギーになって以来、
ケミカルな加工をしていない衣類でないと皮膚が嫌がるのを感じます。
(ヒートテックアレルギーと衣類についてのおぼえがきはこちらに


早川さんの、生産と消費のお話も示唆されるものがあり、
現代では多くの家庭というものが消費の場になってしまっている。
昔は家庭では味噌を作り、縫物をし、
当然のこととしていつも何かしら生産しながら生活していた。

私が思うに、生産は陽で、消費は陰ではないかと。
単に物質的なことだけでなくとも、
何か心身の益を得たいがために、
それを自ら生産しようとするかかわり方ではなく、
ジプシーのようにあちこちさまよって
ただ誰かから欲しがっているだけの状態も陰でしょう。
すでにすべて自分の中にあるのに。
健康も。衣食住すべてが。

家の中に・身体のなかに陰ばかり持ち込んでいたら
バランスを崩して当たり前のように思えます。
そこから抜け出すには陽に転嫁すればよい、という
自然に沿えばいとも簡単に解決の糸口が見つかるように感じました。
もっとも身近な自然は自分の体です。


葉山で畑をされている方の絶品お弁当を頂きながらのお話し会でした。
とくにこの日がそうと狙った訳ではないようでしたが、
偶然にも旧暦の新年をひっそりと丁寧に祝うかのような善き時間。
私の内面にとっても大切な時をすごさせてもらいました。






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