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2019.04.17 Wednesday

『神は本など書かない』


『偉業を成せると錯覚する者は多いが
人生を支配するものを忘れてる

自然が人間の侮辱に反抗する時が来る
自然は
万物を侮辱する全てを消し去るだろう』




映画「ポー川のひかり」を再見。

どうしてもこのセマナサンタの期間中に
もう一度見たいと思っていた希望が叶いました。


映画の始まりはサスペンスタッチで
宗教学者であり国際的に認められつつある大学教授が、
貴重な宗教学の本をことごとく釘でうちつけ磔刑にして
本人は失踪するところから始まります。

この大学教授がすべてを捨てて
流れ流れて川のほとりにある人里離れた田舎の村に住み着く。
村人たちはよそものの彼に対して初めから普段のように挨拶をし
親しみをもって受け入れていた。
大地に根ざし大地を信じて生きている人たち。

その風貌から大学教授は村人たちに
「キリストさん」というあだ名で呼ばれるようになる。

ワインもパンも何かのたとえではなく・・彼らとの日常は大地に根差したもの。
自然の中で生きてこそ、宗教ではなく、学問でもなく、
かつては聖書の中で読み学んだだけだった言葉たちが
まるで別のもののように魂をもって聞こえるようになる。

彼ははっきりという。
『神は本など書かない』と。



『誰もが生まれ直すべきだ。 最初から始めなければ真実は理解できない。』

余韻が残るラストもとてもよく、魂にしみいる映画でした。
しかも聖書に書かれたキリストの受難(磔刑となる最期の1週間)に
リンクさせながら描かれているのがすごいと感じます。

いまこの時にもう一度見られてよかった。




スペインに住み、
教会の中の宗教としての「キリスト教」ではなく、
民族の文化というものに根付いた「キリスト教」を日常の毎日から受け取りました。
それは木や草や風や大地に繋がるものでした。

私は小学2年生の時から自ら気に入ってキリスト教教会に通っていました。
幼いころ、聖書の中の物語はまるで桃太郎やかぐや姫のお話と同じレベルで
自分のなかに当然のもののようにして吸収されてゆきました。

中高大学と美術学校に進んだことで
宗教美術として、学問として、キリスト教をさらに詳細に学びました。

けれどスペインの田舎町に住んだとき、
これまで学んできたキリスト教というものが、
その民族から、大地や自然から、
切り離されたものだということを痛切に知りました。
スペインで感じ取ったキリスト教というのは
学ぶものではなく、
この土地に住む人々にとって
民族と大地と自然を無意識のうちに
血の中に流れるようにして結んでいるものでした。

大地の自然ありき、だったのです。

日本に帰国後、
スペインの教会で歌った聖歌や
歌によって感謝をつたえる手段の楽しさを忘れられず、
都内の大きなカトリックの教会の聖歌隊で
半年ほど歌わせていただいたこともありました。
けれど、スペインとは全く違ったのです。

日本のキリスト教教会には、
スペインにあったような大地も自然もありませんでした。
(ここは日本なのですから当然です。)
ただ教義だけが入ってきていたのです。

私を気づかせてくれ、導いてくれたものは、
キリスト教という書物の中の教義的な宗教ではなく
その土地に息づく民族的な大地や自然との結びだったのだと気づきました。


そして同じものが日本には
古神道という形でちゃんとありました。
それに気づくことができました。
気づくようにうながしてくれたのは
スペインの大地のカミーノ、サンティアゴ巡礼道での経験でした。

その人が生きている大地自然と、その人の魂は
非常に繊細で美しい振動で繋がっています。
自分で選ぶものではなく、
自然とそうなっているのです。

日本人ならお正月になんだか初詣に行きたくなってしまう。
スペイン人ならセマナサンタの行列に加わりたくなってしまう。

これなのです。
もうすでに日常の中に真理があります。
真理とは神のことわり。
大自然のことわりです。

だからスペインの土着のカトリックも日本の土着の古神道も
大自然との結びですから、とてもよく似ているのです。

私がサンティアゴの巡礼中にうけとった、
この大地の子であるという生命に届くほかに比べようのない幸福感は
揺ぐことのないものであり、それは宗教を超えてこの地上に生きるすべてのものに
むすばれているものだとわかりました。
そうカミーノが教えてくれました。



私が大地から直接受け取った真理を、
机上の教義からは何も見えてこない虚しさを、
この映画「ポー川のひかり」はとても美しく伝えています。


2019.04.03 Wednesday

星座の旋律

 



 
 これは水素ガスの分子運動なのです。
 水素ガスの分子が、一秒間にどれだけ多く
 他の分子にアタックする機会があるかということを示しています。 

 何回だと思いますか?

 100億回。100億回ですよ。

 生き物たちの身体を作っている分子たちだって同じです。
 生物でない無機物だって同じです。
 無機物のからだの中でだって、同じように分子たちは飛びまわり、
 いつもぶつかり合っているのです。

 そうなると、生きものも無機物も区別のつかない面も出てきます。

 そうです。そうなのです。

 こうしてじっと息をつめていたって、細胞は、黙ってないんだ。
 黙ってない細胞が沢山集まって出来ているのが人間なんだ。
 人間というのはだから、細胞が集まってやっているお祭りなんですね。


私は黙って氏の話に聞きほれていた。
賢治逝ってからすでに五十五年。
今となっては賢治が書き遺したところどころ途中のぬけた譜面を頼りに
氏と合奏してみるしかない音楽の、しかもその
あまりの美しい旋律にただ聞きほれていた。

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(「教師宮沢賢治のしごと」畑山博 著より)


2019.03.16 Saturday

vivir bien


ボリビアでは法律で制定されています。

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パチャママ法(母なる大地の法)


母なる大地の法は、つぎの諸権利を含んでいる。

自然の進行と生命の規範を維持する権利。

遺伝子を改造したり細胞構造を変化させることのない権利。

人間の変更を含まない生命サイクルおよびプロセスを持続する権利。

清潔な水への権利。

清浄な空気への権利。

平衡状態のためのバランスの権利。

放射性および有毒な汚染のない権利。

現地の居住コミュニティと生態系のバランスに影響を与える
巨大な基盤整備および開発計 画に冒されない権利。

さらにこの法は、「すべての核兵器、生物化学兵器の廃絶」
および「平和」と「調和」を 奨励し促進する。


出典・ちきゅう座「大地に法権利を与えるという画期的 なボリビアの「パチャママ(母なる大地)法」

-----------------------------------------------------


経済にとらわれた拝金システム社会は妄想・幻想でしかありません。
長い地球の歴史から見ても、真の生命の核心から外れて
本当に些末なことがいまこの現代の経済社会の中心になっているようです。

現実を、足元の大地を見て、そろそろ目を覚ますべきでしょうか。
日本は大変遅れているのを感じますが
それでもかなり多くの人々が気づき始めています。

女神の時代と言われていますが、
拝金主義を軸としたピラミッド形式にみられる男性性社会の中で
抹殺されていたネットワーク・コミュニケーション、つまり横の広がりを軸とする
女性性の時代に移行しつつあるのは
現実として多くの方も気づいているのではないでしょうか。

男性性社会の中で、女性性を殺し男性性に一生懸命に沿うことが
まるで社会人として正しいかのように思いこまされてきた日本でも、
若い世代を中心に核心(=大地)に近づくべく旧社会から離れ始めています。
また、横の広がりを軸とした社会ではピラミッド形式の旧社会に比べて
核心に近づきやすくなっていると感じます。
(ここでいう男性性・女性性というのは、肉体的な性別に限らない
世に表れているシステムや価値観、事象現象のことを指しています)

母なる大地に還り、
お金というものが存在しない、
そして所有しない世の中を
そろそろまともに見つめてもよい時期に来ているのかもしれません。





2019.03.03 Sunday

目線


毎週日曜日に配信される「言葉拾い」というメールマガジンを
もう10年以上も購読しているのですが、
時々、編集後記に面白いテーマが挙げられることがあります。
今号は「白目」のお話に付随してこんなことが書かれていました。
(以下転載になります)
---------------------------------------------

人は視線の方向で、

ある程度考えていることがわかります。

●視線が左上 --「視覚的記憶」
過去に見たものを思い出している。


●視線が右上 --「視覚的創造」
見たことのないことを思い描いている。
(嘘を言っている可能性あり)

●視線が左横 --「聴覚的記憶」
以前に聞いた言葉や音を思い出している。

●視線が右横 --「聴覚的創造」
聞いたことのない音を頭の中で創り出している。

●視線が左下 --「内部的対話」
自分自身と対話している。

●視線が右下 --「身体感覚」
感覚や感情をイメージしている。

上--視覚(映像)
下--感じている。考えている。
左--記憶
右--創造
横--聴覚(音)

といった分け方になるでしょうか。
(視線の方向は、本人にとっての向き)

※この方向は右利きの人の場合で、
左利きの人の場合、多くは左右が逆になるようです。


言語脳= 左脳 イメージ脳=右脳

--------------------------------------------
(転載ここまで)


まず、あれ?と思ったのが、
利き手によって右脳と左脳の働きが逆になるということは
あまりないのではないかなあということ。
左利きにクリエイターが多いのは、
左手を使うことが右脳の活性化に繋がっていると言われているので、
左利きの人のイメージ脳が左脳になってることはまずほとんどないのでは。

そう自分でふまえつつ、

私が過去に見たものを思い出しているときは
右上をみることが多いような気がしました。
上記では

●視線が右上 --「視覚的創造」
見たことのないことを思い描いている。
(嘘を言っている可能性あり)

と書かれているので、嘘を言っている可能性あり?笑
私が思うのは、見たことのないこと、というより
目に見える世界のみが記憶されているのではないのではないかなあ、
ということ。
私の場合、絵付けなどするときに明確なビジョンが現れますが、
それは自分が想像(創造)したものではなく
実際に別の界層に実在しているものだと感じています。

逆に、創造したり想像したりしてつくるのは私は苦手で
ビジョンが現れるもの=実在しているものしか作ることができません。
だから例えばある作品のことを思い出そうとするとき、
可視不可視すべて含めて思い出そうとすると思うのです。
そしてそれは、作品のことに限らずこの世のすべての事象に於いても
同じことではないかと思います。
目に目る世界と見えない世界を切り離して考えようとすること自体
土台無理なことだと思います。

そういった意味では
科学で解明できることって現実の事象からすると
まだまだ原始的だなあと思わざるおえません。

そのあたりに
いま縄文時代が取り上げられその高い精神性が浮かび上がってきている所以が、
これからの現代人へのひとつの課題として在るのかもしれませんね。


2019.03.02 Saturday

つれづれ

 
いまや日本でも知られている彫刻家・外尾氏。
氏の記事(下記にリンクさせてもらいました)を読んで
「本当に生きている」人の言葉だなあと思う。
そしてその「本当に生きる」ことに出会ったスペインの大地を思う。

NOMAD PROJECT
サグラダファミリアの主任彫刻家 外尾悦郎氏


気づかせてくれたのはスペインの大地。
気づいたのは自分。
だから本質につながる半分はすでに自分の内にある。

伊勢の遷宮にかかわる方が
「現代のように目先のことではなく
これからは1000年先をみなければならない。」と言われていた。
ガウディが見ていた方向。
外尾氏が見ている方向。
ここ日本でもまた同じ方向を見ている方がいる。



2019.02.28 Thursday

本のこと

 



写真はイタリア政府観光局のサイトよりお借りしました
パレルモの路上図書館と紹介されていましたが・・・ワクワクします。




子供の頃より読書が大好きで、
それはいまもずっと続いています。
けれど
「趣味は読書です。」と言うことには抵抗を感じます。
(趣味とは何だろう、という
これまた別のテーマとして考えるべきことかもしれませんが)

本は自分の人生そのものだなあと感じます。
本しかない人生だとしたら哀しいのかもしれませんが、
私の本は机上ではなくもっと活きた魂のうごきを映しているように感じます。
少なくともこれまでの人生を経てきて、今、手元に残されてきている本たちは
そうだと感じています。



幼いころは人間が大嫌いでした。
人間を全く信用していなかった、といっても過言ではありません。
読む本も人が中心になって展開するお話しには全く関心を示しませんでした。
もちろん人形遊びも大嫌い。
野生の活きた生き物が大好きでした。

野生の生き物の高貴さが世界でもっとも優れたものだと感じていました。
だから読む本も(その当時はそう信じていたので)野生動物の観察記や
写真集、図鑑など、丸覚えするくらいに読み込んでおり、
それらの本たちは今も捨てられずに手元に残っています。
今でもどこか、私の魂の中で、活きて光を放っています。



大人になるにつれていろいろな本を読むようにはなりましたが、
これもなぜか見事に海外文学ばかりを読んでいました。
古今問わず日本の作家の本が読めずにいました。
理由はわからないのですが違和感を感じるからです。

当時は新潮文庫の海外文学が秀逸で、
中高生の頃は学校帰りに新宿の紀伊国屋書店や、休日になると神田の本屋街で
すこしずつ気になる海外文学の文庫本を買い集めていました。
それらの本たちはもうすっかり紙も茶色く古くなってしまいましたが
まだ読めそうな状態のものは手元に残っています。

そんな中で唯一の例外の日本作家で、宮沢賢治の本を読んでいました。
これも新潮文庫からでていたもので集めていて、
このときの私は、賢治が日本人作家だとはどこか思っていなかったふしがあります。
しかも彼はクリスチャンだと思い込んでいました。
この時に買い集めた賢治の本は(当時出版されていたほとんどすべて持っていました)、
のちに地元のイベントでの古本市で、小学生の女の子にお譲りしてしまいました。
最近になって宮沢賢治の世界の作品を作るようになり、
手元に賢治の本がなくなっていて、ああ、そうだった、と思うのでした。



サンティアゴの巡礼道へと導いてくれたのも本でした。
これは今思えば私の人生に於いて
目に見えるわかりやすい形での大きな岐路となる本でした。
パウロ・コエーリョ氏の「星の巡礼」。
この本を読まなかったら巡礼はしなかったかもしれませんし、
いまの私も、作品も、なかったと思います。


そしてスペイン在住時の経験から自分の内の学びで欠けているものを感じ、
いまの日本の民族文化にとって要となっているものが古神道であることに直感し、
これもまた不思議なことに何故かサンティアゴ巡礼からのめぐり合わせで
沢山の主要な古神道の本と出会いました。

自分が本の遍歴を重ねるごとに、この大地に近づいていくのを感じます。
だからこそ私にとって読書は趣味とは到底言えず、そして机上のものとも言えず、
人生に於いてもっと核心的なものなのだと感じられているのです。



本はたいてい自分で購入します。
図書館で借りることもありますが、
そういった本はやはり自分の中でも『興味』でとどまるように思います。
同じ本でも手元にずっとあると見えてくるもの・読み込むものが
異なってくるように思います。

また「あ!」と思ったその瞬間にその本をひも解けなければすべて消え去ります。
インスピレーションにつながるものが手元の本に顕れることがあります。
そういう意味でも、紙に映され(写され、現され)、
それを綴じたカタチの本であることは、直感とつながるように感じています。
(デジタルのものは逆に勘を鈍らせるように感じるので近づきません。)

人に貸せる本と貸せない本があるのはそのためです。
いま手元にある私の本たちはまず人には貸せないものが多いです。
貸してその本の感想のようなものを良し悪しにかかわらず聞きたくもありませんし、
中途半端な学びの片棒を担ぐつもりはありません。
それは古神道的には僻事に相当するとも感じます。

同じその本が、人にとっては資料でも、
私にとっては、
私自身の学び道の中(=生きること)で魂をつなぐもの。
職人が自分の道具を決して他人に貸さないのとどこか似ているかもしれません。

水のような空気のような、あって当たり前、常にないと生きられないもの、
・・なんて書くとちょっと大げさかもしれませんが、
私にとっての読書や本はそんな感じのもののようです。



家の近所の古本屋さんが、
『本で曼荼羅が作れる。』と言っていたのが印象的です。

カテゴリ別や出版社、作家別、価格帯、
お客さんが見やすいように揃えてふつうは棚に並べるのだけれど、
本当は、本の宇宙に沿った、この自然に添うような並べ方があって、
大地から天へ、とか
人体の内から宇宙へ、とか、
そしてその循環がまたみなもとに還ってゆく、
そうやってこの世界のすべてを複雑に関わりあい構成する螺旋を描いた曼荼羅状に
本を並べるのが夢だ、と言われてました。
『でもやっぱりお客さんが選びやすく考えちゃって、
それがなかなかできないんですけれども。』と言われるのですが、
私はその曼荼羅が見てみたい、と思うのです。


2018.08.26 Sunday

良い空気?

  
最近はロクロ仕事中のBGMに、
ラジオの「夏休み子供科学電話相談室」を聞いています。

ある日こんな質問がありました。

子供
『良い空気と悪い空気があるのはなぜですか?』

質問された先生が言います。
『きみは、どういうのが良い空気だと思う?』

子供
『エアコンの空気。』

先生
『じゃあ、悪い空気は?』

子供
『避難訓練の時の空気。』

まだこの地上に生まれてまもない小さな子供は、最も自然に近い存在だった。
こういう環境の子供ばかりではないとは思うけれども、
この質問を聞いていたら子供の老化が急速に進んでいるように感じてしまった。



本やネットで調べた事に疑問を持って質問するのもいいけれど、
『山や海で実際に体験してくれたことから質問をしてくれることが
素晴らしいと思いました。』と言われた、
この「夏休み子供科学電話相談室」のある先生の言葉。

そしてさらに、一人の子供が先生に質答えてもらった後で、
『次は自分も人に説明ができるようになりたい。』と言っていたことに
感動された先生。

「夏休み子供科学電話相談室」、色々な意味であなどれません。


2018.08.06 Monday

メモ

***** 

「癒し」というスローガンの多さにもかかわらず、
「過労死」が社会問題となる国に、本当の癒しはありません。
海外旅行に興味を持たない若者には「夢」もなく、
英語能力は世界の平均的水準にも達していない。
このような状況は決して「国際的」とは言えません。
ピカピカの土木工事を最優先して、
国土中の山、川、湿地帯、海岸がコンクリートに覆われてしまう国には
「エコ」も「自然」も「環境」もない。
地方に行くと必ずハコモノの「○○文化会館」があります。
近辺の自然が粗末に扱われ、
歴史的町並みが壊されて、
唯一残った「文化会館」が、
その地域には文化がないということを証明しています。

「ニッポン景観論」アレックス・カー著

*****



2018.04.19 Thursday

葉山と深山

 
うちの近くに葉山があります。
正確には、葉山町があります、と言うべきでしょう。
葉山町には「葉山」という名前の山はありませんから。

それではなぜ葉山と呼ばれているのだろう?と以前より疑問に思って居ました。
町の人に聞いても『青々とした葉が茂る山なみだから。』というような答えが返ってきます。
それもそうかもしれませんが何となくこの疑問は心のどこかにずっと引っかかっていました。


先日調べ物をしていたら、山伏の方が書かれているある記事に出会いました。

「僕たちと山 #01仙元山」
http://mag.onyourmark.jp/2012/07/yama01/31432


大変興味深い内容でした。

葉山も羽山も人の集落の端にある山の事を指し、
幽界と顕界の際(きわ)にある山をハヤマだという。
そして魂となったものは、ハヤマから深山(ミヤマ)へと入ってゆくのだという。

葉山と深山。
地元の
森戸神社森山神社は対になっているのではないかと感じていたのですが、
名称からも立地からも、葉山・深山と同じ役割を持っているのではないかと思われました。

上記山伏さんの記事では死者のことが描かれていますが、
”頭に恵那(胎盤)を乗せて山から下りる”という古神道からの話を合わせ思うと、
生死は一体となっており、
ハヤマは顕界に最も近い胎内・生まれ変わりへと誘う場所なのかもしれません。


何年か前にお誘いをいただき、
鎌倉宮にて雄勝法印神楽を目の当たりにしたことがありました。

2011年の震災にて宮城県で被災された漁師の方たちが代々受け継ぐこの神楽。
震災時には、何よりもまず神楽の衣装を救い出そうとした、というお話もありました。
自らの家や、大切な人々をなくしても、神楽は残りました。
雄勝法印神楽は、
私がそれまでに目にしたことのあるどの神楽とも異なり、
非常に強い振動を持ち働きかけてくるので、
見ているだけで我を忘れて呆然とし、ただただ感覚だけになってしまったようでした。

もともと、この雄勝法印神楽は、
宮城県雄勝町の葉山神社にて奉納されているもので、
2011年の震災により葉山神社が復興するまでの間、
鎌倉宮にて奉納されていたものでした。
(このお神楽の事を教えてくださった方には本当に感謝しています。
そしてその後、雄勝町の葉山神社は大変ありがたいことに復興を遂げました。)

鎌倉宮は大変微妙な(絶妙な)場に建っており、
まさにこの世とあの世の際に在る、とお聞きしたことがあります。
鎌倉はそういった場所が多いとも聞きますが、
ここはなおかつ清浄に祓い清められている、ということが重要なポイントでしょう。
今回、葉山と深山の記事を拝読して、
宮城県の葉山神社が復興するまでの間、なぜ雄勝法印神楽が宮城県から遠い鎌倉宮で奉納されていたのか、
山伏さんの記事から理解できたように感じています。
現在も開かれている(もしくは開かれる一時がある)清らかな幽顕のキワであるということが大切なのでしょう。

そしてこの神楽を舞うのが漁師である、ということも非常に興味深いことです。
古神道に曰く、漁というのはそのお役目を担った方のおつとめであり、
いまのように一般人誰でもが釣りなどをするのは障りなる、と。

つまり人が漁に出るような海域も、
この界とあちらの界とのキワである、ということでしょう。
意識無意識にかかわらず心身の準備ができているものだけに許されるのが漁であり、
誰もが足を踏み入れてよい場所ではなかったはずでした。
「山は人の界に最も近い胎内なのかもしれません。」と書きましたが、海もまた然り。

縄文時代以前からの習慣や文化が時代を経てその時々に姿を変えながらも、
今現在もどこかに残され、脈々と伝えられているのだとしたらすごいことです。
目に見えるものも見えないものも「結び」の核心に触れることの本質は決してなくならないのかもしれません。
そして、
失くしてはならない、という畏れの気持ちが人にある限り、
それはある必要な瞬間に、目の前に顕れることでしょう。


2018.03.30 Friday

『環』

 
今月の初めに、
書家の友人が毎年出している
上野の森美術館での「亀甲展」へ行きました。

その友人の解説により、亀甲文字・金文字の面白さを
いつもほんのひとかじり味わわせてもらっているのですが、
今回、目に留まったのは『環』の字。(写真は同展にて前山麗朱さんの作品)



『環』という文字の解説がこのように付いていました。

”死者が生き還ることを願う、儀礼のときに使う玉(ぎょく)。”

『還』と『環』はもとは同意語だったのかもしれません。
『無』は『舞』と本来同じ意味だったというお話も以前お聞きしました。
金文字に触れるとハッと世界が広がります。


現在、逗子アートギャラリーで参加させていただいている
グループ展のタイトルは『春の環』といいます。

生き還り・蘇りの季節を春とする民族文化は、
日本はもとより世界各地に多くあります。
(そういえば現在スペインで真っ只中の『セマナ・サンタ』は
キリストの受難と復活を辿る、これも春の神事でした!)

亀甲展にて『環』の語源を知り、
『春の環』というタイトルについて更に深く考えてみたくなるような、
偶然とはいえずいぶんとタイムリーなできごとでした。


ギャラリー企画7名展
『春の環』

3月28日(水) - 4月9日(月)
11:00-17:00 火曜定休

会場/逗子アートギャラリー 
   神奈川県逗子市逗子5-11-31 電話090-1652-9046






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